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4-2

「お呼びでしょうか」


扉をノックして執務室に入ると、リアムが書類に目を通していた。

キース卿は不在らしく、彼の椅子は空席だ。

彼は俺を見て、穏やかに微笑む。


「ええ、少し話したくて」

「何についてですか?」


リアムは筆を置き、俺の方を見た。

学生のころから少しも変わらない眼差しだ。


「シリルのことです」

「……」

「最近、シリルが妙に楽しそうだけど……アレックス様、何か心当たりは?」


心なしか、リアムの声に含みを感じる。


「何もありません」


即座に答えるが、リアムの視線はどこまでも優しく、どこまでも鋭い。


「ふふ……アレックス様、嘘は苦手ですね」

「……いや……嘘などでは」


言葉に詰まる俺を見て、リアムは立ち上がると、トレイに準備されていた紅茶を差し出した。俺はそれを受け取り、揺れるカップの茶色い水面に視線を落とす。まるで今の俺の心のようだ。


「まあ、シリルはああ見えて、ずっとあなたのことを気にしてましたから」

「……」

「シリルは見た目が僕に似ているので性格もそうみられがちなんですけど……兄様にそっくりなんです。気に入ったものは、どこまでも手を伸ばす」

「……キース卿に、ですか」

「ええ。そして一度手に入れたら絶対に離さない。シリルもそのタイプです」


リアムの言葉は穏やかだが、その意味は俺の中で重く響いた。


「護衛対象としての距離感は守っているつもりですが……」

「アレックス様は真面目ですね。でも……」


リアムは一口紅茶を飲み、柔らかく微笑む。


「シリルがそれを許してくれるかどうかは別問題でしょう?」

「……っ」


まさにその通りだった。

シリルは俺にとって護衛対象。だが、シリルのほうがその境界を簡単に踏み越えてきてしまう。そして俺はそれを受け入れてしまっている。……嫌とは思わずに。


「アレックス様」

「……はい」

「シリルを避けるなら、しっかり避けたほうがいいですよ。曖昧な距離感は良くないんですよね、あのタイプ。僕は散々と懲りてますから」

「……ご忠告感謝します」


その後に何を喋ったか実に曖昧だ。

挨拶をして部屋を後にするが、俺の中でその助言が簡単に消えることはなかった。

しかし神は無情なもので、俺に考えるゆとりも与えてくれない。

執務室を出ると、すぐそばの壁にもたれかかるシリルの姿があった。


「アレックス様」

「お前……」

「母上とどんな話をしてました?」

「別に、お前には関係ない話だ」

「そうですか」


シリルは軽く微笑んで俺の前に立った。


「アレックス様が避けても、僕は気にしませんよ」

「……避けてなどいない。避ける気もない」

「そうですね。だって僕、すぐ前にいますし」


シリルがそう言いながら、俺の腕にそっと触れた。

触れられた部分がじんわりと熱を帯びる。


──振り払え。


頭ではそう言い聞かせるのに、手は僅かに震えているだけで動かない。


「アレックス様……」


距離が近い。

胸の奥が、不覚にも跳ねるのがわかった。


「……なんだ」

「ちゃんと、お話しましょうね?……夜に」


シリルが耳元で囁くように告げ、笑みを残して歩き去る。

冷たい廊下に取り残された俺は、手のひらをぎゅっと握り込んだ。


──振り払えなかった自分が、一番の問題だ。



夜が更け、屋敷は静寂に包まれている。

俺の護衛任務は基本的には朝から夜までで、夜から朝までは騎士団の連中が交代で瞠ることになっていた。

自室で一人、ランプの灯りだけを頼りに書類に目を通す。

なんてことはない、執務室が王宮の一角からデリカート邸になっただけだ。

俺にしてみれば随分と楽な任務が数年続いている。

とはいえ、護衛任務がある以上、たとえ休息の時間でも気を緩めるわけにはいかない。


……はずだった。


「……アレックス様」


唐突に響いた声に、俺は大きく息を詰めた。


「っ……」


振り返ると、そこには部屋の扉を開けて静かに立つシリルの姿があった。

夜の淡い光に照らされる銀髪と、こちらをじっと見つめる金色の瞳。

その佇まいは、人離れしておりどこか幻想的でさえあった。


「お前……何をして……」

「言いましたよね?『夜にちゃんとお話しましょう』って」


確かにシリルはそう言っていた。

しかしまさか本当に来るとは思わなかった……。

シリルは自然な動作で扉を閉め、俺の部屋に足を踏み入れる。


「護衛騎士はどうした……」

「ちゃんといますよ?ほら」


シリルが指し示す方には若い団員が気まずそうに顔を扉の向こうから覗かせている。

俺は溜息を吐き、手のサインで閉めろ、とそちらに送ると静かに扉が閉められた。


「……我儘をきかせるんじゃない」

「邸内で行先はここですから……いいかなって」


シリルは軽く微笑むと、そのまま俺の机の前に立ち、手をつく。

いいわけがない。こういう話はどこから漏れるかわからないことだ。ましてや王立騎士団の詰所は王宮内にある。

団員は他所には口外しないだろうが、うっかりと話に乗ることもあるだろう。問題はそこではない。それを聞くであろう王宮の侍女たちでかしましい連中はどこにでもいる。


「お前の評判に傷がつきでもしたら……」

「そんなことどうだっていいです。それよりも、アレックス様が最近、僕を避けている気がして」


俺の心配を他所に、シリルは続けた。

頭が痛い。俺はもう一度溜息を吐く。


「……避けてなどいない」

「本当に?」


シリルが机越しに顔を覗き込んでくる。

距離が近い……近すぎる。


「お前は気にしすぎだ」

「そうですか?」


じっと見つめてくる瞳が、逃がさないと言わんばかりに俺を捕らえていた。


「……そろそろ部屋に戻れ。夜更かしは身体に悪い」


促すように言うが、シリルはまったく動じる様子を見せない。


「アレックス様……」


机に置かれたシリルの手が、ゆっくりと伸びる。

そして、俺の頬に触れた。


「……っ!」


指先が触れるだけで、思わず体がこわばる。


「やっぱり、避けてますよね?」


耳元に届く声が妙に低く、甘い。


「避けているわけではない。……だから、離れろ」

「そう言いながら、振り払わないんですね」


シリルの指がそっと頬をなぞる。

その仕草が、理性を試しているかのように感じた。


「……シリル」


声が掠れる。

背中にじんわりと汗がにじむのが分かる。


「……何をしている」

「見ればわかるでしょう?」


シリルがわずかに笑い、今度は顔を近づけてくる。


「ま、待て……」


けれど、その声は掻き消された。

シリルの唇が俺の頬にそっと触れる。


「……っ!」


それは軽いキスだったが、心臓が張り裂けそうなほど鳴り響く。


「アレックス様」


名を呼ぶ声は静かで、心地よくて、そして──容赦がない。


「僕を避けないでくださいね?そうじゃないと……強硬手段に出なきゃいけなくなるので」


金色の瞳が挑発するように細められた。


「部屋に入るくらいなら可愛いものですよ?」

「……っ、お前……」


軽く囁かれた言葉に、思わず肩がこわばる。

けれど、シリルはただ微笑んでいるだけだった。

頬に残る感触を意識しながら、俺はシリルを見つめ返すことしかできなかった。


「……お前は、もう部屋に戻れ」


なんとか言葉を絞り出すと、シリルは小さく笑った。

どうして俺の方が余裕がないのか……。


「はい。でも……また来ますよ」


その言葉を残して、シリルは静かに去っていった。

扉が閉じられる音が響く。


「……」


残された俺は、ため息を吐き出した。


──本当に、どうしたらいいんだ。


もう理性が保てる自信が──ない。




朝になり、俺はいつものように食堂へ向かう。

早朝の屋敷は静かで、清々しい空気が漂っていた。

情けないことに俺は眠れなかったが。

扉を開けると、すでにシリルが席についていた。

夫妻やセシリアの姿はまだない。

いつも通り、横へと座るとき妙な緊張感が走った。


「おはようございます、アレックス様」

「……おはよう」


昨夜の出来事が頭を離れない。

だが、シリルは至って普通の様子で、優雅に紅茶を飲んでいた。


「今日はいい天気ですね」

「……そうだな」

「アレックス様、今日は休みですよね?僕と出かけませんか?」


さらりと誘われる。

あまりに普通な様子に逆に怒りさえ覚えそうだ。


「いや……予定がある」

「護衛の任務はないでしょう?」

「それでも忙しい」

「ふふ、そう言うと思いました」


シリルがにこりと笑う。


「でも、諦めませんから」


どこまでも距離を詰めようとするシリルに、朝から胸のざわつきが止まらなかった。


「お兄様、またアレックス様を困らせてるの?」


唐突に、セシリアが食堂に入ってきた。


「困らせてなんかいないよ。おはよう、セシリア」


シリルは平然と答えるが、セシリアはじっとりとした目で兄を見つめる。


「どうだか。……アレックス様、また夜に襲撃かけられるかもしれませんね?」


セシリアの一言に、俺は思わず紅茶を噴き出しかけた。


「っ……な、何を言ってるんだ……」

「図星ですか?」


セシリアが小さく笑う。

それを見て、シリルはただ穏やかに紅茶を口に運ぶだけだった。

ここに夫妻がいなくて良かった……いや、居ないからこそ、口にしたのか。


──この兄妹には、誰も勝てそうにない。


再び深く、俺はため息を吐いた。

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