再び夜が訪れた。
屋敷は静まり返り、外では風が木々を揺らす音が微かに響いている。
俺は昨晩と同じように、自室で書類を片付けていた。
護衛騎士としての任務は終了しているが、王都の治安状況や騎士団の報告書に目を通すことは欠かせない。
──と、自分に言い聞かせながら。
本当はただ、何かをしていないと落ち着かないだけだった。
「……くそ」
昨夜の出来事が、頭から離れない。
シリルの指先の感触、頬に触れた唇の温もり。
それを思い出すたびに、妙な緊張感が背筋を走る。
『また来ますよ』
あいつの言葉が脳裏に焼き付いている。
「……今日は来ないだろう」
自分に言い聞かせるが、正直自信はない。
昼間は用事があるといった手前、デリカート邸を出たので比較的静かではあった日だった。
扉を見つめること数度。
溜息をつき、椅子の背に身を預けた。
すると──
「アレックス様、こんばんは」
扉が静かに開く音とともに、聞き慣れた声が響く。
「……っ!」
驚きで思わず背筋が伸びる。
そこには、またしても銀髪を夜の光に輝かせたシリルが立っていた。
「……また来たのか」
「言いましたよね?強硬手段に出ますって」
微笑むシリルはまったく悪びれていない。
むしろ当然のように俺の部屋に足を踏み入れる。
「護衛騎士は?」
「勿論いますよ?」
「お前……」
護衛騎士たちも、デリカート家の我が強い坊ちゃんには逆らえないらしい。
けれど、来るなと思いつつもどこか待っていたような自分がいた。
「アレックス様が油断してるからですよ。」
シリルは扉を閉め、俺の目の前にすっと立つ。
「……本当に何を考えているんだ」
「アレックス様が逃げるから悪いんです。用事なんかないくせに」
シリルは机の前に手をつき、顔を覗き込んでくる。
昨晩と同じだ。俺は思わず、身を引いた。
「逃げませんよね?」
「逃げてないだろう」
「じゃあ、今夜もここでお話しましょう」
そう言って、シリルは俺を促すようにソファを指さした。
──話すだけだ。なんてことはない。
俺はそう思いながら、椅子からそちらへと移動して座った。
横のソファに当然のように腰を下ろす。
「本当に……困ったやつだ……」
俺は溜息をつきつつも、これ以上拒むこともできなかった。
話すだけ。
そう自分に思い込ませたように、暫くはシリルと何気ない会話を続けていたのだ。
だが、問題はその後だった。
「……アレックス様」
「……なんだ」
「疲れてませんか?」
精神的にはお前が原因で疲労困憊気味ではあるな、と言う言葉は飲み込んで、
「別に」
そう答えたが、次の瞬間、シリルがそっと俺の腕に触れた。
「っ……シリル?」
その手が俺の方から手首までをそっと撫でていく。
「肩、こってますね」
そう言って、シリルの指が俺の肩へと戻り優しく押さえた。
「……マッサージでも始めるつもりか?」
「そうですよ。アレックス様の役に立てるなら、何でもします。僕にとっては一石二鳥ですから」
声が近い。
耳元に囁かれる声が、まるで熱を持っているかのように響く。
「いらん、やめろ」
俺は肩を竦めるが、シリルは手を離さない。
「ほら、固いですよ」
「だから……っ」
振り解こうとした瞬間、シリルが俺の肩に手を滑らせ、体を密着させてきた。
「……」
至近距離で、シリルと目が合う。
距離はわずか数センチ。
「アレックス様……」
その声が、甘く耳を撫でる。
「避けませんよね?」
シリルが俺の頬にそっと触れる。
「……避けたら、何をするつもりだ」
俺が問い返すと、シリルはくすりと笑った。
「さあ、なんでしょう?」
「……」
理性が、限界に近づいているのを感じた。
このままでは、非常にまずい。
「……もう、部屋に戻れ」
「どうしてですか?」
「どうしてもこうしてもない。戻らないなら、俺が連れて行くぞ」
「ふふ、そんなことしたら、余計に離れませんよ」
耳元で囁かれる。
──くそ……!こいつは本当に……!
「お前が本気でこういうことをするなら……」
俺は、シリルの腕を掴み、ソファに押し倒した。
「……っ!」
驚いた顔をするシリルを見下ろす。
「これがどういうことか、ちゃんとわかっているんだろうな?」
シリルの目が少しだけ見開かれた。
そうだ。驚いて、嫌がれ。そして、逃げてくれ。……いや、受け入れてくれ。
……俺は矢張り矛盾している気がする。
けれどそんな俺と違いシリルは、
「もちろん。わかってます。」
迷いない口調でそう答えて、俺の襟を掴み、引き寄せる。
「……っ!」
そうして──唇が触れあった。
「アレックス様がしかけたんですからね……?」
囁くように言ったシリルの顔は、俺を翻弄する悪魔のように笑っていた。
──このままじゃ、いけない。
そう思いながらも、振り払うことができない俺がいる。
「シリル……っ」
唇が触れ合った瞬間、俺は反射的に体を引いた。
けれど、シリルはまったく動じることなく、俺の襟を握る手に力を込める。
「逃がしませんよ、アレックス様」
金色の瞳が暗闇で淡く光る。
いつもの柔らかい笑顔とは違う、どこか獲物を見定める捕食者のような目だ。
「お前……俺をからかってるのか?」
「からかってません」
シリルは穏やかに微笑みながら、俺の顎に口づけた。
触れられた部分がじわじわと熱を帯びていくのが分かる。
「僕は本気ですから。むしろ本気と思っていなかったのはアレックス様でしょう……?」
「……っ」
真正面からぶつけられるその言葉に、返す言葉が見つからない。
「アレックス様って、本当に優しいですよね」
「何を言って……」
「でも、時々少し可愛いです」
シリルはそんなことを言いながら、ソファに押し倒されたまま、俺の顎へともう一度口づけた。そのまま、首筋に甘く噛み付いてくる。
「おい……それ以上は……」
「それ以上って、何のことです?」
わざとらしく小首をかしげてくる。
確信犯だ。
「シリル……本当に……」
「じゃあ、アレックス様が責任をとってください」
首筋に息遣いを感じて、俺の肩が揺れた。
押し倒しているのは間違いなく俺なのだが、主導権がどちらにあるのか不明だ。
「責任……っ?」
「僕がこんなふうに行動するのは、アレックス様のせいですから」
挑発するようにシリルは俺の首筋にキスを繰り返す。俺は奥歯をかみしめた。
理性を保とうと必死になるが、どうにも具合が悪い。
「……こんなことをして、何がしたい」
俺がようやく搾り出すように問いかけると、シリルは微笑んだまま、俺のシャツから手を離し両手を俺の首へとまく。
「好きな人には、触れてみたくなるものですよ?」
「……っ」
その一言が、最後の一押しになりそうだった。
「……冗談だろう?」
「本気ですよ」
目の前の少年は真剣だった。
少しの迷いも見せず、ただまっすぐ俺を見つめてくる。
──これ以上、触られるのはのはまずい。
俺はシリルの手を強引に引き剥がし、ゆっくりと立ち上がった。
彼を見下ろし、わざと険しい表情を作る。
「いい加減にしろ。お前はまだ子供だろう」
「子供ですか?」
「そうだ」
「ふぅん……」
シリルはソファに座り直し、足を組んだ。
少しだけ不満そうに唇を尖らせるが、その瞳はまだ鋭い。
「子供だなんて……つまらない逃げ方ですね」
「……事実だ」
「でも、さっきまで避けませんでしたよね?……避けられなかったくせに」
「……」
痛いところを突かれる。
「僕を本当に子供と思っているなら、そんなに動揺しないですよね?何せアレックス様はおもてになって百戦錬磨でしょう?」
「ど、動揺など……」
「嘘ですね。声が揺れてますよ」
シリルは微笑んだまま俺を見上げる。
その瞳には、確かな自信が宿っていた。
「僕はアレックス様をちゃんと見てます」
「……」
「昔から、ずっと……ね」
胸の奥で、何かがざわついた。
彼が何を言いたいのかは、痛いほど分かっている。
「……シリル」
「アレックス様が僕を子供扱いするなら……それでもいいです」
シリルは立ち上がり、俺の正面に立つ。
俺の胸にそっと手を添え、顔を少しだけ近づけた。
「でも、それで諦めると思ったら大間違いですよ」
「……」
「だって、僕は、アレックス様のことが好きですから」
──もう、どうすればいいのか。
シリルの顔が近い。
けれど、その瞳を振り払うことも、手を退けることもできない。
「アレックス様がどれだけ頑固でも、僕はきっと……この先もずっとこうします。僕が選ぶのは今までもこれからもアレックス様だけです」
「お前……」
「だから、逃がしません」
最後にそう言い切ったシリルは、ゆっくりと俺の手を引いて、その場を離れた。
「今日はこのくらいにしておきますね。アレックス様が可哀想ですから」
「……部屋に戻るのか?」
「ええ。アレックス様が限界みたいなので」
小さく笑うシリルに、俺はどっと疲れを感じた。
ドアの前で立ち止まった彼が、ちらりとこちらを振り返る。
「でも……また来ますよ。次はベッドの中かもしれませんけど」
そう言い残して、シリルは静かに去っていった。
扉が閉まる音がして、部屋は再び静寂に包まれる。
俺はソファに腰を下ろし、深く息を吐いた。
「……どうするかな……」
もう完全に巻き込まれていることを自覚しながらも、次の夜がどうなるかを考えてしまう自分がいることに気づき、さらに頭を抱えた。
──結局、逃げられそうにない。むしろドツボだ……。