夜が明け、デリカート邸の執務室にはいまだ緊張した空気が漂っていた。
昨日の使い魔襲撃を受けて、俺、リアム、そしてキース卿が再び集まり、対策を練っている。
「……以上が昨夜の報告です。使い魔がシリルを狙って侵入したこと、結界が破られたことは明白です」
俺が静かに報告を終えると、リアムが地図を広げて候補地に印をつけた。
「昨夜の使い魔の動きから見て、この地点がやはり最も怪しいですね。昨夜も報告しましたが、最近、不可解な失踪事件も相次いでいますし」
リアムが指差したのは、山間部にある古い廃坑だった。
「だが、現地を調査するのは簡単じゃないね」
キース卿が重々しい声で口を開いた。
「モルディスは罠を張り巡らせるのが得意だ。結界を破るには聖属性を持つ者の力が必要だろう。それも神官レベルではない。──つまり、シリルの同行が不可欠だ」
その言葉に、俺は即座に反対の声を上げた。
「それには反対です。シリルを危険な場所に連れて行くわけにはいかない。邸に残して守りを固めるべきです。ノエルに協力は仰げないのですか」
だが、リアムは首を横に振った。
「ノエルは今、無理なんですよ」
「それはどうしてまた……」
俺が聞くと、リアムは一度キース卿を見てから肩を竦める。
「お腹にね、子供がいるので……流石に危険な場所には連れていけないんですよ」
その理由に俺は一瞬言葉が止まったが、それはそうだな、と頷いた。
にしても、だ。やはりシリルを連れて行くのは俺としては反対ではある。
けれど、俺がそう再度反対する前に、
「ノエルが同行出来ないということは、現状でその結界を破れるのは、今のところシリルだけです。彼がいなければ、どれほどの兵を連れて行っても意味がない」
そう続けた。そして、それに続くように、
「その通りだよ、アレックス様」
広間の扉が開き、シリルが中に入ってきた。はっきりとした声でそう告げる。
「僕も行きます。今さら後ろに隠れているつもりはありません」
「シリル……」
俺は彼を睨むが、シリルは怯むことなくまっすぐに俺を見返してきた。
「アレックス様、僕が行かなければもっと多くの人が危険に晒されるんです。それだけは嫌です」
その言葉に、一瞬の沈黙が落ちた。
「……分かった」
俺は重い声でそう告げた。
「ありがとうございます、アレックス様」
シリルは微笑みながら小さく頷いた。
※
その日の午後、俺たちはリアムを中心とした少数精鋭の部隊で邸を発った。
キース卿は邸の防衛を引き受ける形となり、出発前に俺に声をかけた。
「アレックス君、君の判断を信じるよ。だが、決して無茶はするな。リアムとシリルを頼んだよ」
「分かっています、キース卿。必ず任務を遂行します」
セシリアがリアムとシリルに駆け寄り、心配そうに声を上げた。
「お母さま、お兄様、絶対に気をつけてくださいね!」
「もちろんだよ、セシリア」
シリルは彼女の頭を撫で、俺に視線を向ける。
「じゃあ、行きましょう、アレックス様」
「ああ、行くぞ」
俺たちは馬に跨り、モルディスのアジトと思われる廃坑を目指した。
山間部への道中、いくつかの村を通り過ぎたが、その中にはどこも荒れ果て、住人の姿が見当たらない。
一見して明らかにおかしい状況だった。
「この村……魔力を吸い取られているようだね……」
リアムが地面に触れ、険しい顔をして呟く。
「モルディスが使い魔を送り込み、実験に必要な材料を奪っていった可能性が高い」
「許せない……」
シリルが小さく呟いた。
俺は剣を握り直し、一行に警戒を強化するよう指示を出す。
「奴のアジトは近いだろう。ここから先は気を抜くな」
森の奥へ進むにつれ、空気が変わり始める。
その奥から聞こえる唸り声は、まるで何百もの獣が同時に喉を鳴らしているようだった。それに伴って漂う瘴気の濃度は、息苦しさを感じるほどだ。モルディスの魔力が地に染み込み、周囲を侵食しているのだろうか……。
「……あれが結界のようですね」
リアムが指差した先には、古びた廃坑があった。
その入り口を覆うように、不気味な紫色の結界が漂っている。
「アレックス様、森の奥を警戒してください。瘴気が濃くなっているのは、あちらに使い魔か何かが隠れている証拠です」
リアムの低い声が冷静に響く。彼の言葉には迷いがなく、状況を的確に見極める眼差しがある。
「シリル、頼めるか?」
「ええ」
シリルは結界の前に立ち、両手を掲げた。
その瞬間、聖なる光が彼の手から放たれ、結界が震え始めて紫の光が徐々に収縮していく。
その先に待ち受けるものは何なのか──ただの静寂がこれほど不気味に感じたことは、これまでなかった。