結界の前に立つシリルの背中は、頼りないほどに細く見えた。だが、その小さな体から放たれる光は、結界を確実に揺るがしている。
俺は周囲を警戒しつつも、シリルの動きに目を離さないようにしていた。
「リアム、周囲の状況はどうだ?」
「動きがある気配はありませんが……この静けさは逆に怪しいですね。瘴気の濃度も増しています」
リアムの低い声が辺りの緊張をさらに引き締めた。
森の奥から聞こえる低い唸り声は一瞬たりとも止むことはなく、空気には明らかな不穏さが漂っている。
シリルの放つ光がさらに強まり、結界が大きく揺れ始めた。
だが、その瞬間──森の奥から、闇が蠢くような気配が広がった。
「来るぞ!」
俺が剣を抜いた瞬間、森の中から巨大な影が飛び出してきた。
それは前に対峙したの使い魔とは明らかに異なる存在だった。
黒い体毛に覆われた獣のような体を持ちながら、頭部は人間の顔を歪めたような異形の姿。どの使い魔も酷く醜悪で、創造主の趣味が知れるというものだ。
その赤い目が、まっすぐにシリルを狙っていた。
「シリル!下がれ!」
俺が叫ぶと同時に、獣のような使い魔が跳びかかってきた。
俺は剣を構え、触手のような腕を叩き落とす。
「──ぐっ!」
腕を斬り落としたはずの触手は、すぐに再生し、再び襲いかかってくる。
リアムがその隙を突き、雷球をぶつけるが、それも全く効果がないようだった。
「厄介ですね……再生速度が尋常じゃない」
「どうすれば……」
リアムが言葉を詰まらせたその時、結界の光が一際強く輝いた。
「アレックス様、今です!」
シリルの叫びに振り返ると、彼の光が結界を完全に消し去ったところだった。
結界が崩壊し、その場に漂っていた瘴気が一瞬だけ薄れる。
その隙を逃さず、俺は使い魔の懐に飛び込み、全力で剣を振り下ろした。
剣が異形の中心部を貫き、使い魔は甲高い叫び声を上げながら崩れ落ちる。
──だが、森の奥から新たな足音が響いてきた。
「……まだ終わりじゃないのか」
俺は息を整えながら剣を構え直す。
その時、シリルがそっと俺の横に立った。
「アレックス様、僕も戦います。僕がいないと、ここから先には進めません」
その言葉には覚悟が込められていた。
だが、俺は彼を危険に晒すわけにはいかない。
「無理をするなと言ったはずだ」
「無理じゃありません。僕がいなければ、アレックス様は危険な目に遭うんです」
シリルの目には強い意志が宿っている。
それが俺の言葉を封じた。
──俺がこの少年を守るのが当然だと思っていたが、もしかすると、俺がこの少年に救われているのかもしれない。
「……分かった。ただし、俺の指示に絶対従え」
「もちろんです」
シリルは微笑みながら頷いた。
その時、リアムが警戒を促すように声を上げた。
「おしゃべりはそこまでです。次が来ますよ」
森の奥から、いくつもの赤い目が現れ、こちらを睨んでいた。
そしてそれらは、次々とその姿を現す。
先ほどの使い魔とは異なる複数の存在だった。
人型の輪郭を持ちながら、身体中に黒い瘴気を纏い、目だけが赤く光る。
まるで魂を抜かれた死者が歩いているような、禍々しい光景だった。
「……これもモルディスの仕業か」
俺は剣を構え直し、シリルを背後へと押しやった。
シリルの力がなければ結界を突破することはできないが、それでも彼に直接戦わせるわけにはいかない。
「リアム、こいつらの動きはどうだ?」
「まだ分かりませんが……奴ら、魔力で動いているようです。あの使い魔と同じ原理でしょうね」
リアムの冷静な声に耳を傾けながらも、視線は一瞬たりとも敵から離さない。
敵の数は少なくとも十体以上。
しかも動きが異様に滑らかで、ただの操られた存在ではないようだ。
「シリル、ここは俺たちに任せろ。お前は後ろで待機だ」
「でも──」
「いいから従え」
俺の言葉にシリルは一瞬ためらったが、やがて頷き、少し下がった位置で杖を構える。
「リアム、連携するぞ」
「了解です。アレックス様、援護は任せてください」
リアムが小さく呪文を唱え、俺たちの周囲に薄い保護膜が張られる。
それを合図に、俺は前へと踏み出した。
敵が一斉に動き出す。
そのうちの一体が前方から突進してきたところを、俺は剣で受け止め、そのまま斬り払う。
だが、黒い体は真っ二つに割れたはずなのに、瞬く間に再び結合する。
「くそっ!厄介だな……!」
リアムが背後から雷の矢を放つが、敵はそれを受けてもまるで動じない。
まるで何らかの呪法で耐性を得ているかのようだった。
「アレックス様、あの目が弱点かもしれません!」
シリルが叫ぶ。
俺はすぐに目標を変更し、赤い目に狙いを定める。
──一閃。
剣が赤い目を貫くと、敵はその場で動きを止め、黒い煙となって霧散した。
どうやらシリルの言う通りだったらしい。
「やはり目が弱点だ!狙いを定めろ!」
俺が叫ぶと、リアムもさらに攻撃の精度を上げ、次々と敵の赤い目を射抜いていく。
敵は次第に数を減らしていくが、瘴気の濃度は増すばかりだった。
「シリル、ここから先は危険すぎる!一旦退け!」
「でも、僕がいないと結界を突破した意味が──」
シリルの言葉を遮るように、森の奥から新たな低い唸り声が響いた。
それは、先ほどの敵とは比較にならないほどの重々しい気配を纏っている。
リアムが眉をひそめ、呟く。
「……どうやら、次は本命が来そうですね」
その言葉に、俺は再び剣を構え直した。
そして、ゆっくりと現れた影を見て、俺は息を呑む。
──それは、人間の姿をした異形だった。
「……君たち、ずいぶんと僕の計画に干渉してくれるじゃないか」
低く、冷たい声が森の中に響く。
黒いマントを纏い、白い仮面をつけた男が現れる。
その手には、禍々しい紫色の魔力が渦巻く杖が握られていた。
「お前がモルディスか」
俺が低い声で問いかけると、男は仮面の奥で嗤ったように見えた。
「さてね。僕がそうだと思うのなら、それで構わないよ。でも……君たちはここで終わりだ」
モルディスらしき男が杖を振るうと、周囲の瘴気がさらに濃くなり、視界が奪われる。
俺は剣を握り直し、リアムとシリルに向かって叫んだ。
「気をつけろ!ここからが本番だ!」