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幽世と人の世との間には明確な境界がある。

「境界」とは、人の世と幽世を隔てる目には見えぬ薄い膜のようなもので、普段はしっかりと保たれているが、時間や場所によってはその境が揺らぎ、人間が迷い込んだり、神や妖怪が現世に姿を現したりする。

この境界が不安定になると、両方の世界が混ざり合い、大きな災厄を招くことがある。

橡様は俺が屋敷にいる間に色々と教えてくれた。

そして境界の見回りは、橡様の大切な仕事のひとつでもあるらしく、今日はその手伝いを申し出て、荷物の持ち運び役を務めている。


「長くん、重くない?」

「大丈夫ですよ。村で荷運びしていたので慣れてます」

「頼もしいねぇ」


境界のある森は、神域の奥深くにある。

昼でも木々が生い茂り、光が細く差し込む程度だったが、不思議と怖さはなかった。

橡様は楽しげに微笑んで前を歩いている.それだけで、空気が柔らかく感じるからだろうか。

森の奥深く、ようやく辿り着いた境界の石碑は、静かにそこに佇んでいた。

苔むした石に、何か古い文字が刻まれている。


「これが境界を守る石碑だよ。触れてみる?」

「いいんですか?」

「大丈夫。少しならね」


俺は恐る恐る指先で石碑をなぞる。

ひんやりとしていて、どこか柔らかい感触がした。


「……すごいですね。生きてるみたいです」

「そうだよ。これは境界の力を受けているからね」


橡様は俺が持っている木箱から器を取り出し、静かに石碑の前に座る。

その動きは儀式めいていて、どこか神聖な空気が漂っていた。


「僕が今から少し力を注ぐから、見ていてね」


橡様がそう言うと、指先からふわりと光が生まれ、石碑の表面に流れていく。

その瞬間、石碑の周りに小さな花がぽつりと咲いた。


「花が……」

「うん、境界が安定すると、こうして花が咲くんだよ。分かりやすくていいでしょう?」


静かに咲く花は、なんとも言えない可憐さだった。


「橡様の力って、改めてすごいですね……」

「君が隣で見てくれるから、いつもより上手くいく気がするよ」


そんなことをさらりと言われると、耳が熱くなる。

俺はそれを隠すために横を向くと、橡様が小さく笑った。

どうもな……最近は結構転がされてる気がする。まあいいけど。

俺は一つ咳払いをして、橡様に向き直った。


「……それはよかったです」

「ふふ。可愛いなぁ……でもね、これはいつか君がすることでもある」

「え、俺が……?俺には無理ですよ」

「ふふ、神嫁の役割は案外大事なんだよ?」


冗談めかして橡様が言うが、俺としては神の御業なんて使えるもんでもないので、それを聞いて内心焦る。まあ、そのうちね、と橡様は俺の頭を柔らかく撫でた。

しかし、儀式が終わりかけた頃、橡様の表情がわずかに曇った。


「……あれ?」

「橡様?」

「境界に、小さなひびが入ってる」


橡様が石碑を指でなぞると、ほんの少し、細かなひび割れが浮かび上がった。


「大丈夫なんですか?」

「うん、すぐに直せるよ。ただ……少し気になるね」


橡様は指先でそっとひびに触れ、静かに力を注ぐ。

再び花が咲き、そのひびはすぐに消えていった。


「これでよし、と」

「……よかった」

「長くんがいると、安心して作業できるよ」


橡様がこちらを見て微笑む。


「僕の仕事、どうだった?」

「……すごかったです。俺、何もしてませんけど……」

「いやいや、君がそばにいるだけで、神嫁として十分役に立ってるんだよ?」


橡様はまた軽く俺の髪を撫でた。

そうして立ち上がり、また二人で歩きだす。

どうやら作業はこれで終わりらしい。

森を抜ける帰り道は、橡様の後ろを静かに歩いていた。

さっきの儀式がまだ頭に残っていて、ひびが入った境界のことが少し気になっている。


「橡様、さっきのひび割れ……」

「ん?」


声をかけると、橡様はゆっくりと振り返った。


「やっぱり、何か良くないことが起きてるんでしょうか」


俺が少し不安げに尋ねると、橡様はふっと微笑んだ。


「大丈夫だよ。ひびが入ること自体は珍しくないからね」

「そうなんですか?」

「うん。あれくらいならね」


橡様が森の木々を見上げる。

夕暮れの光が木漏れ日になり、橡様の横顔を照らしていた。


「やっぱり、誰かの仕業だったりするんですか?」


俺が恐る恐る尋ねると、橡様は小さく息をついた。


「可能性はあるね。例えば……浅葱や玖珂みたいな子がね」

「浅葱様と玖珂様……」


浅葱は以前会ったことがある。

でも玖珂は……。


「この前、君に触れようとした彼だよ」


そこで俺の頭のなかで、ああ、と繋がった。


「玖珂は蛇神だよ。長く生きてるけど、ちょっと変わった性格をしていてね。僕が境界を守っているのを面白がって、時々からかいにくるんだ」

「からかい……ですか?」

「うん、玖珂はそういうのが好きだからね。人間を攫ったりすることはしないけど、境界を少しいじって様子を見たりするんだよ」

「えぇ……それって……結構迷惑じゃないですか?」


俺が思わず眉をひそめると、橡様はくすっと笑った。


「そうなんだけどね。でも、玖珂は悪意があってやってるわけじゃないんだ。ただのいたずらみたいなものだから。まあ、君に触れたらいたずらじゃすまないけどね」

「神様のいたずらって……たちが悪いですね」


俺が苦笑いすると、橡様は「そうだねぇ」と少し楽しそうに応じた。

しばらく歩いていると、橡様がぽつりと呟いた。


「でもね、浅葱のことは少し気をつけておいた方がいいかもしれないね」

「浅葱様が……?」

「彼は、長くんのことをあまりよく思っていないようだからね」

「それは……なんとなく分かります」


以前会った時の浅葱様の冷たい目を思い出す。

あの人が俺を睨んでいた理由は、きっと俺が橡様の神嫁だからだろう。



「……橡様にとって、浅葱様ってどういう存在なんですか?」


何気なくそう尋ねると、橡様は「どういう存在か……」と少し考える素振りを見せた。


「前にも言ったけど、幼馴染で……大事な友達だよ。でも……今の浅葱は昔の彼とは少し違う気がするね」

「……俺がいるからですか?」


俺がそう口にすると、橡様はすぐに否定するように首を振った。


「違うよ、長くんが悪いわけじゃない。ただ、浅葱は少しだけ独占欲が強いだけなんだ。

本当はね、彼も優しい子なんだけれどね……」


橡様の言葉を聞いて、少しだけ浅葱様のことを考えてみる。

神様にもいろいろな感情があるんだな、と改めて思った。


気づけば森を抜けて、神域の境内が見えてきた。

夕暮れの中で、橡様が少しだけ振り返る。


「長くん、これからも一緒に境界を見回ってくれる?」

「もちろんです。俺でよければ」

「ありがとう」


橡様は穏やかに微笑むと、俺の手首に巻かれた組紐をそっと指でなぞった。

指がほんの少し長く触れていて、その仕草に心臓がほんの少し高鳴る。


「君が隣にいるだけで、僕は安心できるよ」


橡様の言葉にまた耳が熱くなって、俺は少し目を逸らした。


「そんなに触らなくても……」

「触りたいんだよ」


さらりとした声で言われて、思わず足を止めてしまう。

ふと橡様が俺の目の前に立ち、顔を覗き込んだ。


「……橡様?」

「長くんがどんな反応をするか、見たくなってね」


橡様は楽しそうに目を細めて微笑むが、その瞳はどこか真剣でもある。

俺は視線を逸らせず、橡様の目を見つめ返してしまう。


「僕のお嫁さんなんだから、もっと甘えてくれてもいいんだよ?」

「……これ以上、橡様に甘えたら俺、駄目になりそうです」


俺がそう口にすると、橡様はふっと笑い、そっと俺の髪を撫でた。


「それでもいいよ。君がどこにも行けなくしたいなぁ」


その声は、冗談めいたものだった。

だけど、その一言にどこか本音が混じっている気がして、俺は何も言えなかった。

俺は緩く息をつきながら、橡様と並んでゆっくりと歩き出すのだった。

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