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11−1

穏やかな日差しが降り注ぐ中、橡様は庭の一角で何やら作業をしていた。

俺は屋敷の縁側に座り、書簡の整理をしていたが、ふと橡様の姿に目が留まった。


「橡様、何をしているんですか?」


声をかけると、橡様は振り向いて微笑んだ。


「少し庭の手入れをしているんだよ。境界の花が最近元気がないから、ここの花を移そうと思ってね」

「え……それなら俺も手伝いますよ」


書簡を脇に置き、立ち上がろうとすると、橡様は首を振った。


「大丈夫だよ。君は休んでいて」

「でも、せっかくですし」


そう言って近づくと、橡様は少し困ったような表情を見せた。


「本当に大丈夫だから。君はここで休んでいてくれると嬉しいな」


その言葉に、少し胸が重くなる。

橡様はいつも俺に無理をさせまいとしてくれるけれど、時々それが過保護に感じることもあった。


「……わかりました」


素直に引き下がるのも悔しかったが、口論するほどでもない。

そのうちまたちゃんと話せばいいんだ。

そう思い、言葉を飲み込んで俺は少し離れた場所で橡様の作業を見守ることにした。

橡様は手際よく花を摘み取り、小さな籠に集めていく。

その姿は優雅で、まるで舞を踊っているかのようだった。

しかし、ふと足元の石につまずき、橡様の体がぐらりと傾いた。

橡様は体勢を崩し、そのまま庭の石段に倒れそうになる。


「橡様!」


咄嗟に俺は縁側から飛び出す。

間に合え、と思いながら駆け寄ると、橡様を抱きとめた。

だが、情けないことに俺の身体ではうまく橡様を支えることが出来ず、その勢いで俺は足を滑らせ、背中から地面に倒れ込んだ。


「長くん!」


鈍い痛みが背中に走り、息が詰まる。

橡様はすぐに起き上がり、俺の顔を覗き込んだ。


「大丈夫!?どこか痛む?」

「……っ……大丈夫です。橡様こそ、怪我はありませんか?」


痛みを堪えながら笑って見せると、橡様の表情が一瞬固まった。



「何でこんな無茶をするんだ!」


突然、橡様の声が鋭くなった。

驚いて顔を上げると、橡様は眉をひそめて俺を見下ろしていた。


「俺は……橡様が倒れそうだったから」

「だからって、自分が怪我をしてどうするんだ!」


その言葉に少し怯む。

橡様がこんなに強い口調で話すのは初めてだった。

俺、そんなに悪いことをしただろうか?と心の隅で思う。


「……でも、橡様に怪我をさせるわけにはいきませんから」

「僕は大丈夫だよ。少しの怪我ならあっという間に治ってしまう。君こそ人間なんだから、もっと自分を大事にしてほしいんだよ……!」


橡様の目には明らかな怒りと、不安が滲んでいた。


「……だから橡様が怪我をしていいって話じゃないでしょう?」


思わず声が低くなる。

橡様が心配をしてくれていることはわかる。わかるけれど……。


「……長くん?」

「俺が橡様を助けるのって余計なことですか?……橡様がそんなに怒るなら、俺はどうしたらいいんですか。何もしないで黙って守られていろってことですか?」

「君が無事でいてくれるなら、それで――」

「それじゃ、俺はただの役立たずじゃないですか!俺だって橡様を助けたい」


自分でも驚くほど強い口調で言ってしまう。

橡様の表情が曇るのが見えて、後悔の念が押し寄せた。

橡様は何かを言いかけたが、結局口を閉じたまま、深い息をついた。


「……僕の言い方が悪かったね。ごめん」

「……別に、謝らなくてもいいです」


少し意地になって答えると、橡様は黙って手を差し伸べた。


「立てる?」


その手を取って立ち上がると、背中の痛みがずきりと走った。

けれど、橡様の前ではそれを隠したかった。


「僕が言いたかったのは、君に無理をしてほしくないということだけだよ」

「……わかってます」


そう答えながらも、どこか釈然としない思いが胸に残った。



夜、橡様の寝殿へ来るように神使の子が告げに来た。

普段なら素直に従う俺も、今日はどうしても足が向かなかった。

結局この儀式だって、俺を守るためにしていることで、俺が人間じゃなければ必要ないことなんだろう。

橡様が心配してくれることも、守ってくれることもわかっている。

けれど、それじゃ俺はただ守られるだけの存在でしかない気がしてならない。

自分の部屋で膝を抱え、ぼんやりと手首の組紐を眺める。

この組紐が俺を繋いでいるようで、どこか重く感じられた。


「……何をすればいいんだよ」


俺がそう呟いたとき、


「長くん」


その声に、胸が跳ねる。

襖の向こうにいるのは橡様だ。


「寝殿に来ない理由を聞かせてもらえるかな?」


声は穏やかだが、どこか底冷えするような響きが混じっている。


「……今日は、いいです」


そう返すと、しばらく静寂が続いた。


「開けるよ」


橡様の声が低く響く。

次の瞬間、襖が音を立てて開き、橡様が中に入ってきた。


「どうして寝殿に来ないの?」


橡様の目は俺を見据えていた。

俺は視線を逸らしながら答える。


「……橡様に迷惑をかけたくないので……」

「迷惑なんて思ったことないよ。むしろ君がここにいる方が、僕は落ち着かない」


橡様の言葉はどこか強い感情を含んでいて、俺の胸にずしりと響いた。

俺が我儘すぎるんだろうか……。


「……今日は、一人でいたいんです」


精一杯の勇気を出してそう言うと、橡様はしばらく黙り込んだ。


「……それが君の本心?」

「……ええ」


言葉に詰まりながらも、そう返す。

橡様は俺のそばまで歩み寄り、膝をつくと静かに顔を覗き込んだ。


「長くん、僕が何を思って君をここに迎えたのか、わかってる?」


橡様の目は真っ直ぐ俺を見つめていて、視線を逸らすことができない。


「君を傷つけないように、守っていきたいって思ってる。でも、それは君が僕の隣にいてくれることが前提なんだよ」

「……橡様」


橡様の手が俺の手首を掴む。

その力は優しいものの、逃れることを許さない確固たるものがあった。


「僕の隣にいるだけでいいのに……どうしてそんなに遠くへ行こうとするの?」


その声には、焦りと寂しさが滲んでいるようだった。


「遠くに行こうなんて……ただ、今は……」


言葉を探していると、橡様が立ち上がった。


「……いいよ。今夜は、僕が君を連れて行く」

「えっ?」


橡様は俺の腕を掴み、立たせた。そして、俺を抱き上げる。


「橡様……!俺は、今日は……!」

「君が来ないなら、僕がどうにかするしかない。神嫁の務めを放棄するつもり?」


橡様の声が低く、冷たささえ感じた。

その言葉に、胸が刺されるような痛みを覚えた。


「……そんなこと、思ってないです……!」

「なら、来て」


俺は橡様に抱かれたまま、自室を後にした。

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