夜の静寂の中、寝殿には微かな衣擦れの音と荒い息遣いが響いていた。
橡様は俺の抗う声を無視して強行し、気づけば意識が朦朧としたまま眠りに落ちたらしい。
翌朝、ぼんやりと目を覚ますと、身体中が鉛のように重い。
動こうとすると、全身に鈍い痛みが広がる。
「……橡様……?」
思わず名前を呼ぶが、返事はない。
周囲を見回すと、橡様の姿はどこにもなかった。
いつもは俺が起きるまで、その腕の中だったはずだ。
代わりに、寝台の横に置かれた机の上には、茶碗に注がれた水と簡単な食事が並べられている。
俺はゆっくりと上体を起こし、机に手を伸ばした。
水を口に含むと、ひんやりとした感触が喉を潤す。
けれど、それだけではこの胸の奥の苦しさを消すことは到底できない。
「……結局、俺は何も変わらないままなのか……」
自嘲気味に呟いて、ふと手首を見る。
そこには橡様から贈られた組紐が巻かれていた。
どうあっても昨夜のは橡様から神気を貰うものだ。
その力に応じてか組紐は微かに温もりを帯びているように感じられる。
──守られている。
そう分かっているのに、胸に広がるのはどこかのっぺりとした感情だった。
その時、木戸の向こうから足音が聞こえてきた。
扉が静かに開き、橡様が姿を現した。
「長くん、目が覚めたんだね」
橡様は柔らかな笑みを浮かべているが、いつもよりそれは薄い気がする。
「……おはようございます」
俺は低くそう言うだけで、橡様の方を直視することができなかった。
「体調はどう?何か不調はない?」
橡様が寝台の横に腰を下ろし、俺の顔を覗き込む。
その優しさに、胸の奥がちくりと痛む。
「……別に、大丈夫です」
短く答える俺の言葉に、橡様が僅かに眉を寄せる。
「昨夜のこと……怒ってるのかな」
その言葉に思わず顔を上げた。
違う、そういうのではない。怒りがまるでないと言えば嘘になる。
けれどこれはそんな簡単なものじゃない。
「怒ってるとか、そういうんじゃなくて……ただ、俺は橡様にとって本当に必要な存在なのかな、って……」
うまく説明ができない。
自分でも何を言っているのか分からなかった。
けれど、胸の奥にあったものが堰を切ったように溢れ出していた。
「……俺がここにいることで、橡様に何か迷惑をかけてるんじゃないかって……思うんです」
橡様は少し目を見開き、そして短く息を吐いた。
「迷惑だなんて……君は僕のすべてだよ。昨夜のことだって、君を失うかもしれないという恐怖しか僕にはなかった」
その言葉には、深い哀しみと執着が混ざっていた。
「でも、俺は……」
言葉を続けることができなかった。
その瞬間、橡様がそっと手を伸ばし、俺の手首に触れた。
「君がここにいる。それだけで僕は幸せなんだよ。どうかそれを分かってほしい」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
橡様の言葉は真剣だった。それでも、俺の中にはまだ拭いきれない感情が渦巻いていた。
橡様がそっと俺の頬に触れる。
その手の温かさに、俺は初めて目を閉じて深く息をつくと、背中がまたじくりと痛んだ。
※
その翌日から、橡様は俺を寝殿から出さないようになった。
いつもなら神使の子たちが庭で遊んでいて俺を呼びに来たり、風通しの良い縁側に出て書簡の整理をしたりするのだが、それらすべてが禁止された。
「……出る必要はないよ、長くん」
俺が格子の外を見つめていると、橡様の静かな声が背後から聞こえた。
振り返ると、橡様が書物を手にしながら座していた。
その表情は穏やかだが、どこか緊張感が滲んでいる。
「でも、神使の子たちが呼んでくれているみたいですし、少しくらい……」
「だめだよ」
橡様の返事は、少しの隙もないほどきっぱりとしたものだった。
俺はその強い言葉に押し返され、口を閉じる。
「外に出る必要がどこにある?君はここで休んでいてくれればそれでいいんだ」
「でも、それじゃあ俺……」
俺の言葉を遮るように、橡様が静かに立ち上がった。
その長い影が、障子の柔らかな光を遮る。
「ここで過ごすことが、君にとって一番安全なんだよ」
橡様の声は穏やかだが、その瞳には強い決意が宿っていた。
「橡様……俺は、逃げる気なんてないです。ただ……」
言葉を続けようとすると、橡様が俺に近づいてきた。
その距離感に思わず後ずさるが、橡様の手が俺の腕を掴む。
「君がどう思っていようと、僕にはわかるんだよ」
「……何が、ですか?」
「君が僕のもとから離れようとする可能性だよ」
その言葉に、胸がざわつく。
「……そんなこと、考えてないです」
「そう願うよ。でも、それを信じるには……僕はまだ君を失う恐怖を拭いきれないんだ」
橡様の手が、俺の腕をそっと撫でるように強くなり、俺を抱き寄せてその腕に強い力を持って仕舞い込んだ。
「だから、しばらくここで過ごして。僕のそばを離れないように」
その言葉は柔らかくもあったが、どこか命令めいていた。
数日間経とうとも、俺は寝殿から一歩も出ることができない日が続いたままだ。
神使たちが食事を運び入れ、橡様は忙しい日中以外はずっと寝殿にいた。
宵が近くなると、今まで一人だった湯殿にも橡様が現れる。
その手で隅々まで清められて、そのまま、また寝殿に戻される。
その優しさに包まれることが苦しいと思うようになったのは、この状況が初めてだった。
「橡様……これじゃ、俺は……」
「大丈夫だよ。君がここにいてくれるなら、それだけで十分だから」
橡様の声は変わらず優しい。
けれど、その優しさが俺をじわじわと追い詰める。
俺は何もできないまま、ただ橡様の手のひらの上で生かされているような気がしてならなかった。