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12-1

あれから俺の生活は、寝殿の広い一室に限られたものになった。橡様の決意は固く、俺がどれだけ説得しようとしても、一切耳を貸してくれなかった。

縁側の外、庭に出ることもできず、ただ格子越しに木々が揺れる音や池の水面が煌めく様子を眺めるしかない。

神使たちが、外の様子や季節の花々を手に寝殿を訪れては、俺を慰めてくれた。

最初のうちは耐えられた。

橡様の「君を守るため」という言葉を何度も思い返し、自分を納得させようとした。

けれど、日を追うごとに、どうしようもない息苦しさが募る。

橡様が用事のために寝殿を離れるとき、俺は少しだけほっとする。

それが自分の本音だと気づいたとき、なんとも言えない自己嫌悪が胸を刺した。

そんな日々が続いたある日のことだった。

橡様が日中、境界の見回りに出かけた隙を縫って、神使の子がそっと俺に声をかけてきた。


「長様、お庭に少しだけ出てみますか?」


その提案に、俺は思わず息を呑む。

庭の景色は毎日障子越しに眺めているが、実際に足を踏み入れたことはなかった。


「……でも、橡様に怒られるかもしれない」

「大丈夫です。僕たちがちゃんと見守っていますから!」


神使の子供たちは目を輝かせ、俺の手を引こうとする。

あの橡様の厳しい視線が脳裏に浮かび、躊躇いはしたものの……。

庭に一歩出てみたい気持ちは抑えられなかった。


「……少しだけ、なら」


俺がそう答えると、神使たちは嬉しそうに小さな手を引っ張った。


縁側を越え、久しぶりに土を踏む感触。

風が頬を撫で、池のほとりに咲く花の香りが鼻をくすぐる。


「……きれいだな」


口から漏れた言葉は自然と溢れたものだった。


子供たちが小さな声で笑いながら、池のほとりへと駆け出していく。

俺も思わず後を追おうとした、その時――


「――ガルルルッ!」


突如として、茂みの中から獣の唸り声が響いた。

振り返ると、黒い毛並みを持つ獰猛な獣が低く身構えている。

その目は鋭く、明らかにこちらを狙っていた。


「な、何だ……?」


背筋が凍りつくような気配に、俺は動けなくなる。

明らかな敵意を持って獣はこちらを睨んでいた。

神使の子供たちが恐怖に震えながら俺の背後に隠れるのを見て、咄嗟に動いた。


「……下がって!」


俺は子供たちを背に隠し、獣に向き合う。

どうする……逃げるべきだろうか?いや、この状態で逃げ切れるかどうかもわからない。

そもそもがおかしい話なのだ。ここは神域。ましてや橡様の領域。

いつだっただろうか、俺は一度橡様に聞いたことがあったのを思い出す。


『橡様』

『うん?』

『一度お聞きしたかったのですが、浅葱様や……玖珂様が自由に出入りできるのはどうしてなんですか?ここは橡様の神域なのですよね?』

『ああ、それはね……まあ彼らがそれなりの神と言うこともあるけれど……僕に害意がないからかな』

『害意、というと……』

『ここは君が言った通り、僕の神域で結界もある。だから僕を害そうとするものは退けてしまうのだけど……そうでない限りは自由に出入りできるんだよ』


けれど、目の前にいる獣は──と考えたところで、ああ、と思った。


俺が狙いだ。


橡様に対しての害意があるものは弾く。

けれど標的が俺ならば──……易々と入ってこれる。


ならば、と思った。

じり、と後ろに下がりつつ背後にいる子等に向かって、


「……俺から離れて茂みの方に走るんだ」

「でも、でも、長様っ」

「……いいから、行って!」


とん、と一人の背中を押すと神使達が走り出す。


「ガアァッ!」


獣が低く唸り、次の瞬間には俺に向かって飛び掛かってきた。

俺はとっさに横に飛びのく。

鋭い爪が頬をかすめ、鋭い痛みと共に血が滴り落ちるのを感じた。


「長様っ」


子供たちの小さな声が呼びかける。

後ろを振り返ると、神使の子供たちが茂みの向こうへと逃げていく。

よかった……でも、次はよけられるだろうか――獣が低く身を沈め、再び俺に狙いを定めてきた。


「くそっ……!」


俺は獣の視線を引くために声を張り上げ、足元に落ちていた木の枝を手に取った。

それを構えて威嚇するが、相手は怯む様子もなく飛び掛かってくる。

枝を振り下ろすが、爪がそれを弾き飛ばした。


「……っ、うわっ!」


俺は地面に転がりながら必死に距離を取る。

だが獣はすぐに追いつき、俺へと唸り声をあげている。


「長様!」


子供たちの叫び声が聞こえる。

だめだ、ここで終わるわけにはいかない。

獣の目が光っているのが見えた。

どこか不気味な紫がかった色をしていて、それがただの獣じゃないことを示している。


「こいつ……なんなんだよ……!」


そう思っても、考える暇なんてない。

獣はまるで顔面だけを執拗に狙ってくるようで、俺はそれを避けるだけで精一杯だった。

飛び掛かってくる動きは速いし、爪も牙も鋭い。

さっき頬をかすった爪の痛みがまだ引かない。


「っ……!」


わけがわからない。でも、そんなことを考えるよりも、どうにかしてこの状況を切り抜けなきゃいけない。

神使の子たちは無事に逃げてくれたはずだ――俺が今やるべきことは、この獣を引きつけて、少しでも時間を稼ぐこと。

だが、もう体がついていかない。呼吸は荒くなるし、足元はふらついてくる。

気づけば視界がぼやけて、頭の中もぼんやりとしてきた。

俺は最後の力を振り絞り、地面の小石を掴んで獣の顔に叩きつけた。

獣が一瞬怯んだ隙に、逃げようとするも足が重くもつれる。


その時、何かが変わった。


風が、冷たくなった。さっきまで暖かかった空気が、一瞬で凍りつくみたいに。

周りの木々がざわめき始め、どこからか鈴の音が聞こえてきた。小さくて遠い音だけど、妙に心に響くような音だった。


「……橡様……?」


思わず呟いたその瞬間、獣が牙を剥いて飛び掛かってきた。


避けようとしても、もう足が動かない。反射的に腕を上げるけど――間に合わない。

鋭い痛みが顔に走る。特に左目……そこだけが、ひどく熱い。


「ぐっ……!」


崩れるように地面に倒れた俺の頭の中には、紫に光る獣の目だけが焼き付いていた。

そして、鈴の音がだんだん大きくなるのを聞きながら、俺の意識は闇の中に沈んでいった。

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