俺が意識を取り戻したとき、胸に温かい手のひらを感じた。
橡様が俺の上に覆いかぶさるようにして、必死で何かをしているのが分かった。
上には見慣れた寝台の帳が見える。
「……橡、様……?」
掠れた声で呼ぶと、橡様が驚いたように顔を上げた。
その瞳には、安堵と悲しみ、そして微かな怒りが入り混じっていた。
「長くん……!」
その声にも普段の穏やかさとは違う、どこか震える響きがあった。
「俺……どうして……」
起き上がろうとすると、頭がずきりと痛む。
そして、視界が普通に戻っていることに気づいた。
――左目。あの獣の傷は深かったはずだ。味わったことのないような痛みを覚えている。
けれど、手を伸ばして触った個所には、何もなかった。
何かを撒かれているわけでもなく、傷もない。
「俺……治って……?」
「……僕が治したよ」
橡様の言葉は短いものだったが、その声には重みがあった。
俺はその意味を深く考えることもできないまま、橡様を見つめる。
「無茶をしたんだろう?」
橡様の目が俺をまっすぐに見据えた。
その視線の奥にあるのは怒りだけじゃない――悲しみ、そして恐れだ。
思わず目を逸らした。
「……神使の子たちを守りたかったんです」
「それで君がこんな目に遭ってどうするんだ!」
橡様の声が震えた。怒りのようでいて、悲しみが滲んでいる声だった。
「俺が無事だからいいじゃないですか……!」
そう言い返した俺の言葉に、橡様の表情がわずかに歪む。
長い沈黙の後、彼は深く息をついて呟いた。
「君が無事だからって……僕がどれだけ怖かったか、分かる?」
その言葉が胸に刺さる。
橡様の手がそっと俺の頬に触れる。その手はひどく冷たかった。
「君が傷つくのを見るくらいなら、僕が全部背負う方がいい。なのに……君がこうして傷ついたのは、僕のせいだ」
橡様の声がかすれた。
「君を守りたいのに……君を失うかもしれない恐怖に耐えられない」
その声を聞いたとき、初めて橡様の気持ちを真正面から受け止めた気がした。
その感情の重さに、胸が締め付けられるような思いだった。
「……ごめんなさい」
俺は絞り出すように謝罪の言葉を口にした。
「もう二度とこんな無茶はしない……約束します」
橡様はしばらく俺を見つめた後、優しく微笑んだ。
その微笑みはどこか儚く、けれど心からの安堵が滲んでいる。
「約束だよ、長くん」
そう言いながら、橡様はそっと俺を抱きしめた。
その抱擁は温かく、俺の心を深く癒していく。
けれど、同時にその胸の内にある焦燥も感じ取れた。
「……橡様?」
「何でもないよ。ただ、君をこうして抱きしめられることが……とても嬉しいだけ」
少し掠れた声でそう言う橡様に、俺は何も返せなかった。
その後、橡様は俺を寝台にそっと横たえた。
ゆっくりと橡様が俺の髪を撫でる。
「……眠って、長くん。今は休んで……」
声や手の温かみがまた俺を微睡に誘う。
呟きを聞きながら、俺の意識は再び深い眠りに落ちていった――。
※
橡様が獣に襲われた俺を救い、治療を施してくれたあの日から、しばらくの時間が過ぎた。
橡様は俺の回復を優先し、日常の厳しい制約を少し緩めてくれた。
寝殿の縁側で、庭の景色を眺めることを許されるようになり、久々の解放感に胸が軽くなる。
「……気持ちいい……」
縁側に座り、庭を眺めながら独り呟く。
あの日以来、橡様は俺のことを以前よりも気にかけてくれているように感じる。
神使たちが庭先から花を摘んできて、それを俺の枕元に飾ってくれるのも、橡様の指示らしい。
ぼんやりと空を見上げていると、神使の子が小さな菓子を手に持って駆け寄ってきた。
「長様!長様!橡様がこれを渡してほしいって」
「……また?」
最近、橡様は俺の食事にこっそり甘いものを添えてくるようになった。
「疲れてるときには甘いものがいいから」と言われたが、俺はそこまで疲れているつもりはなかった。
けれど――実際、最近の俺はどうにも体調がすぐれない。
頭がぼんやりして、身体が重い。眠気が一日中続くようになったのも、あの日以降だ。
「……眠いな」
縁側の柱に寄りかかると、意識が遠のいていく……。
※
「長くん、長くん……大丈夫……?」
声に呼ばれて目を開けると、目の前には橡様がいた。
神使たちが心配そうに見守る中、橡様が俺の額に手を当てている。
「最近、よく眠ってしまうね……」
橡様の言葉は穏やかだったが、その視線には隠せない不安が滲んでいるように見えた。
「橡様、俺……最近、どうも変なんです」
「変、って?」
「眠くて仕方ないんです。前はこんなことなかったのに……」
「うん……」
「痛いとか気分が悪いとかはないんですけど……」
俺が正直に打ち明けると、橡様は一瞬だけ眉を寄せた。
その後すぐに微笑むが、その笑顔はどこか硬い。
「君が頑張りすぎていたから、その反動だよ。焦らず、ゆっくり休めばいい」
その言葉に、俺は頷くしかなかった。
橡様の表情がいつもよりも険しい気がしたのが、どうしても心に引っかかる。
数日後――庭先で小さな花を摘んでいたとき、頭がふらりと揺れた。
立ち上がろうとするが、視界がぼやけている。
「……あれ?」
足元がふらつき、体の力が抜けていく。
目の前がぐらりと歪む中、神使の子たちの声が遠くから聞こえた。
「長様!大丈夫ですか!」
俺の意識は、そのまま深い闇に沈んでいった――。