橡様が出かけてからしばらくして、俺は庭を歩いていた。
季節が流れるにしたがって身体もゆっくりと変わっていく。
身体の中がどう変わっているかなんて俺には全くわからない。
けれど俺の腹は少しずつ膨らんできていた。それに不安がないかと言えば嘘になる。
でも、喜びの方が遥かに大きかった。
柔らかな日差しの中で、静かに揺れる木々の影が穏やかで、心を和ませる。
「外を歩くと少し、気が楽になるな……」
そう呟きながら、池のほとりで足を止めたその時、風に混じって聞き覚えのある声が聞こえた。
「おや、橡様がいない間に随分とのんびりしているじゃないか」
その声に振り返ると、浅葱様が立っていた。
彼の笑顔はどこか張り付いたようで、その瞳の奥に潜む冷たさが肌を刺すように感じられる。
「……浅葱様?どうしてここに……」
俺が問いかけると、浅葱は涼しい顔で歩み寄ってきた。
「どうして、とは酷いな。君の様子を見に来たんだよ。何せ大切な神嫁様だからね」
その言葉に、皮肉がたっぷりと込められているのを感じる。
俺のことがお嫌いだからな、この神様は。
「橡様の子を宿しているんだろう?それはそれは、神域中が祝福する出来事だ」
浅葱様の視線が、俺の腹に注がれる。
咄嗟に俺は両手で腹を抱えるようにした。
す、と細められたその目には羨望とも嫉妬ともつかない感情が浮かんでいた。
「……君みたいな人間が、神の子を宿すなんてね……」
浅葱様の声が低く、冷たく響く。
その言葉には、どうしようもない妬みと皮肉が滲んでいた。
「……橡様が選んだのが君だなんて、不思議で仕方ない。君には何もないのに」
浅葱様がそう呟くと、俺は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
何もない――その言葉が心に刺さる。
人間なんだから仕方ないだろう、という反発も入り混じって。
「私はずっと橡様の隣に立ってきた。ずっと支え続けてきた。それでも……君が現れた瞬間、彼の目は君だけを見ている」
浅葱の声が震えた。その顔には、どうしようもない悔しさが浮かんでいる。
「……しかも君は子を宿した。それも橡様の子供を……!まったく、神とは気まぐれなものだな」
俺は浅葱様の言葉に言い返すべきか迷った。
だけど、自分の中にも浅葱の言葉が否定しきれない感情があった。
「……俺だって、橡様の助けになりたいと思っているんです……」
そう言った俺の声は震えていた。浅葱様が鼻で笑う。
ほんっと、この神様……神様なんだよな?
「助ける?君に何ができるというんだ。橡様は君を守るために、どれだけのことを犠牲にしていると思う?逆鱗だって失い……」
その言葉に、俺は眉を寄せる。
「逆鱗……?」
ここに来て書物で読んだことのある言葉だ。
逆鱗とは龍の顎の下に、1枚だけ逆さに生えている鱗のことで……それには不思議な力が宿っていると書いてあった。それを失うと龍は一時的に弱体化するとも。
それを失う?……どういうことだ?
「龍の逆鱗……あれがどれだけの力を持つか、君には想像もつかないだろうな。力を封じ込め、弱体化してまで、彼は君を選んだ……たかが、たかが人間のお前のためにそこまで犠牲を払うなんて、理解できない。どうしてお前なんだ、長……!」
浅葱様が感情を昂らせるに従い、その足元の草が揺れる。
最後の一言は、まるで吐き捨てるように低く響いた。
「浅葱、その辺にしておけ」
鋭い声が風を裂いたかのように響く。
振り向くと、橡様が険しい顔で立っていた。風が彼の髪を揺らし、日差しがその輪郭を際立たせている。まるで天から降り立ったかのようなその姿に、浅葱様ですら一瞬だけ動きを止めた。
「橡様……」
浅葱様が軽く目を細めるが、橡様の視線は冷たく、浅葱様を射抜くようだった。
「……長くんに嫉妬しているのか?君らしくない」
「嫉妬?私が?」
浅葱様が小さく笑うが、その笑みはどこか空虚だった。
「そこまでわかっておきながら……失礼する」
そう言い捨てると、浅葱様は踵を返して去っていった。
浅葱様が去った後、橡様が優しい目で俺を見つめた。
「長くん、君は何も気にしないでいいんだよ」
橡様の言葉は温かかったが、浅葱様の言葉が胸に残り続けていた。
浅葱様の言葉が正しいとは限らない。それでも、無知な自分が橡様の足枷になっているような気がしてならなかった。