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季節はまたひとつ巡り、神域の庭も少しずつ色を変えていた。

風が頬を撫でるたび、柔らかな冷たさを含むようになり、空には澄んだ青が広がる。

膨らみ始めた腹は、日に日に重く感じられるようになってきた。


「……そろそろかな」


縁側に座り、庭を眺めながら独り呟く。

最近では中の赤子が動いたりもするようになった。

最初に胎動を感じたときの驚きと嬉しさは、今でも鮮明に覚えている。


でも――同時に不安もあった。


何せ男なわけで……。

俺に子を産むなんて大層なことが本当にできるのだろうか。

しかも神の子。

どれだけ覚悟が必要なのか想像もつかない。

橡様は隣で優しく支えてくれているけれど、自分の中の葛藤は俺自身で乗り越えなければならない。

そう思うと、自然とお腹に手を添えてしまう。


「大丈夫だよな、俺にもできるよな……」


まるで自分に言い聞かせるように呟いたその時、縁側に軽い足音が聞こえた。


「長くん、調子はどうだい?」


穏やかな声で話しかけながら俺の隣に座ったのは汀様だった。

汀様は有言通りにちょくちょくと俺の様子を見に来てくれる。


「ええ、少し眠い日が続きますけど……それ以外は問題ないです」


俺が答えると、汀様は安心したように頷き、腹を軽く触れたりして診察を進めていく。その手が脈を取りながら、何か考え込むように視線を落としているとき、俺は思い切ってずっと疑問に思っていたことを聞くことにした。

そう──子供の産まれ方である……!


「……あ、あの汀様」

「どうしたんだい?」


穏やかに顔を上げる汀様。俺はその視線に一瞬ひるんだが、思い切って言葉を続ける。


「こ、子供ってどう産まれるんですかね⁈俺、男だし、どこから出すんでしょうか⁈」


汀様は一瞬動きを止め、その後、目をぱちぱちと瞬いた。

まるで俺が唐突に妙な踊りでも始めたかのような顔だ。


「……なるほど。そういえば、君にとっては未知のことだね」


全然笑わない。さすがだ。でもその落ち着きが逆にプレッシャーだ。

俺が緊張しながら汀様の顔を伺っていると、彼は真面目な表情のまま口を開いた。


「まあ、普通の人間の場合は……女性特有の部分から生まれるんだけど、君の場合は少し違うね」

「……違う?」


俺の声がひときわ高くなったのを聞いて、汀様がゆっくりと微笑んだ。


「神の加護が働く。君の身体は、赤子が無事にこの世に出られるように調整されているはずだよ。橡が君を選んだ時点で、神域の力がその準備を整えているから心配はいらない」

「いや、具体的にはどこから……」


焦る俺を見て、汀様がぽんぽんと俺の肩を叩いた。


「どこから産まれるかを気にするのは、まだ少し早いんじゃないかな?」

「そ、そうですかね……」


何となく納得したような、全然解消されないような。

俺がぐるぐると考え込んでいると、汀様は優しく微笑んで続けた。


「ただ、安心していいよ。君が辛くないように、身体が自然に動くようになっている。痛みも少ないよう配慮されるはずだから」

「痛み少ないんですか⁈ よかった……最悪腹を裂くのかと……!」


俺がほっと胸をなでおろすと、汀様は小さく笑った。


「妖の子ならそういうこともありそうだけどねぇ。腹を裂くというか、内側から割いてでてくるというか。まあ、大丈夫、橡が君のことを必死に守るだろうし、私も協力する。……それに、もう少ししたら橡に聞けばいいんじゃないかい?」

「え、橡様に⁈」


突然の提案に目を丸くした俺を見て、汀様は肩をすくめていた。


「そう。だって、彼は君の伴侶だろう?それに……きっと、その場になれば、君がどうするべきかわかるさ」


何ともふわっとした結論に、俺は曖昧に頷くことしかできなかった。

その後も他愛無い会話を続けていた時、ふと思い出したことを口にする。


「そういえば、少し前に神域に獣が入ってきたことがあったんです。神域ってそういうものもいたりするんですかね……?」


汀様の手が止まる。その顔には明らかに驚きと不審が浮かんでいた。


「獣が神域に?それはどういったもの?」

「えっと、紫っぽい……獣だったと思うんですけど、俺、それに襲われて」

「馬鹿な」


汀様が一声あげる。


「それはおかしなことだ。……本来、神域は害意ある存在を寄せ付けないはずだが」


汀様の声は冷静だったが、その言葉の裏に隠れた緊張を感じ取る。


「しかも……君を狙ったんだろう?」

「ええ、でも橡様がすぐに助けてくれました」


俺がそう答えると、汀様はしばらく黙り込んだ。


「……橡と相談して、結界を強化する必要があるかもしれないね。ここは橡が一人だったこともあって割と緩めなんだよ。橡に害がなければ入れてしまうからね」


その言葉に、ああ、と合点がいく。確かに橡様も神域の特性について話していたことがある。


汀様が言葉を終える頃、橡様が静かに寝殿に入ってきた。


「汀。長くんの調子は――」

「それは問題ない。橡、それよりも、獣の話を今聞いたよ」


橡様の柔らかな声が途切れる。汀様から獣の話が出て、目を細めたからだ。

その目には一瞬、冷たい光が宿る。


「汀、君の提案通りだ。結界を見直すのがいいだろう。明日にでも……いっそのこと君にも手伝ってもらおうか」

「それは構わないが……もしかして……」


汀様はそう言いながら、ちらりと俺と橡様を見た。その視線には優しさとどこか焦りのようなものが混じっている。


「……何か、知ってるんですか?」


俺が尋ねると、汀様は微笑むだけで答えない。


「……いや、可能性の話だからね。ともかく、君はゆっくりしていなさい。私と橡でどうにかしよう」

「そうだね。長くんには気にしないでほしい。ただ、君の安全を確実にするためにやるべきことをやるだけだよ。色々と落ち着いたらちゃんと話すよ」


それは案に裏側を知っているという話にはならないだろうか?

しかしこれ以上聞いたとして、どちらも話すような雰囲気ではなかった。

俺は納得できたわけではないが、今は聞きたい気持ちを抑えてわかりました、と頷いた。

橡様と汀様が結界の強化について話を続ける中、俺の心には小さな違和感が残ったままだった。




汀様が去り、橡様は一度周囲を見回ると邸から出た。

神使達はそれぞれに役目で動いている音がする。

夜が更けていく中、俺は静かな寝殿で一人過ごしていた。

心地よい静寂に包まれたその時――どこかから微かな音が聞こえた。


「……風の音、か?」


最初はそう思ったが、それとは違う。もっと近くで、何かが動いている音だ。

俺は気になり、寝殿を出て庭へ向かった。

夜の庭は昼とはまるで違う雰囲気だった。月の光が静かに地面を照らし、木々の影が長く伸びている。


「――長、良い月夜だね」


低く冷たい声が闇の中から響く。

声の主――浅葱様が木陰から姿を現した。

その顔には微笑が浮かんでいるが、その目には俺への嫌悪が色濃く滲んでいる。


「浅葱様……?」


俺がその名前を口にすると、浅葱様は歩み寄りながら静かに笑った。


「君の顔を見ると、不思議な気持ちになるよ。……人間の君が、あの橡様の子を宿しているなんてね」


浅葱様の視線が俺の腹に注がれた。その視線はどこか冷たく、鋭い。

俺は思わず腹を庇うように手を添える。


「君が橡様に選ばれた理由……いまだに納得がいかないよ」


浅葱様の声は低く、静かだが、その言葉の裏には明らかな嫉妬が込められていた。


「ずっと橡を支えてきたのは私だ。それなのに、君が現れた瞬間、すべてを奪われた気がする」


浅葱様の言葉が、まるで刃のように俺の胸を刺す。

その冷たい目が、俺の全てを見透かすように向けられていた。


「……橡様の支えになりたい気持ちは、俺だって同じです……」


震える声でそう答える俺を、浅葱様は冷たく見下ろしていた。


「支えになる?君が?……笑わせないでほしいな」


その声が夜風と共に俺を切り裂いていく。

浅葱様の嫉妬と憎しみが、夜の静寂をじわりと侵していくのを感じた――。

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