橡は寝殿の一室で立ち尽くしていた。そこには長の気配がない。
ふと視線を移すと、長が愛用していた小さな湯飲みが置かれている。
手を伸ばして触れるが、それだけで胸に刺すような痛みが広がった。
「……長くん……」
絞り出すように名前を呼んでも、返事はない。
その静寂が耳に痛いほど響いた。
神使が慌ただしく現れ、その沈黙を破った。
「橡様、長様の行方が分かりません……!」
「……何?」
彼の声は低く、冷たい響きを帯びていた。
神使の報告が続く。
「寝殿の外に出られた後、突然気配が途絶え……ただ、外に奇妙な香が漂っていましたが、詳細は分かりません……」
橡の金色の瞳が細められる。
「香り、か……」
かつて彼の神域に放たれた紫の獣――そして、それを操った可能性のある者の顔が浮かぶ。
──浅葱。
彼は内心でその名を呟いた。
橡はすでに浅葱の仕業だと考えていた。
だが、それを証明する確証は何もない。そして、今ここで名を口にすることでもない。
証拠もなく動くことが、事態をさらに悪化させる可能性があると理解していたからだ。
「……汀を呼んでくれ」
そう命じると、神使が大きく頷いた。
そして暫くもすると、汀が緩やかな風を纏いその場所に現れる。
その冷静な姿は、嵐のような橡の心を沈める港のようだ。
「……汀」
彼は名を呼ぶ。汀はその表情を読み取ったかのように頷いた。
「何かあったんだな?」
「ああ。……長くんがいない。この神域から消えた」
「……まさか……」
橡の言葉に、汀は眉を寄せた。
「長くんが……僕の子供が、奪われた……!」
橡が叫ぶと、汀は眉をひそめたものの、冷静なままだった。
「落ち着け、橡。……君が焦っても何も変わらない。他に何か情報は?」
「外に香りが、と……」
「花、か……」
「……証拠はないが、可能性は高い」
橡の声は冷たいが、その瞳の奥には焦燥と怒りが渦巻いていた。
汀はそっと橡の肩に手を置いた。
「いいか、君が冷静でいれば、必ず道は開ける。証拠を掴むのが先だ」
「……だが、長くんが……!」
橡の拳が震える。汀は微かに口元を緩めた。
「大丈夫だ。君の力を使えば、きっと見つかる。そのために、これを持っておくといい」
汀は小さな符を橡に手渡した。
「これは……?」
「力の痕跡を探る符だ。君の大事な人がどこへ連れ去られたのか、これで手がかりが掴めるだろう」
橡は符を受け取り、じっと見つめた。
その指が符を握るたびに、彼の胸の奥で怒りと愛情が渦を巻く。
「……長くんを、必ず取り戻す」
低く呟かれたその言葉には、橡の決意が滲んでいた。
汀は微かに頷くと、符の使い方について付け加えた。
「この符は、長くんに触れた者や物の力の痕跡を探るものだ。香りや微かな力の流れを感じ取ることができる。君なら、きっとその痕跡を辿れるだろう」
橡は符をさらに強く握りしめた。
「……ありがとう、汀。君がいなければ、今の僕はどうなっていたか分からない」
その言葉に、汀は穏やかな微笑みを浮かべた。
「私は君の友人であり、医術師だ。君と長くんを支えるのが僕の役目だよ。それに、君にはまだ成すべきことがある。長くんを取り戻すだけじゃない。その子の未来のためにも、君がしっかりと立っていないといけない」
汀の言葉が、橡の揺れる心を静めるように響いた。