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一番初めに感じたのは鈍い頭痛。

瞼を開けると見知らぬ天井がぼやけた視界に映る。目をしばたたいてみても、状況がつかめない。

柔らかい布の感触が背中を支え、どこか甘ったるい香りが鼻をくすぐる。


「……ここは……?」


口を開いてみるが、声が掠れて出ない。喉がひどく乾いている。

身体を起こそうとするも、力が入らない。右手を顔に当てたとき、指先に何かが触れた。


「……これ……?」


俺の指に絡むのは、細やかな細工が施された紺色組紐。だけど、それが何なのか、どうして持っているのか、全然思い出せない。

必死に記憶を辿ろうとするけど、頭の中が霧に包まれたようにぼんやりして、どこにも辿りつかない。名前、そうだ……名前は……?


「俺は……誰だ……?」


小さな声で呟いたけど、虚空に溶けるだけだった。

どう考えても、それさえも出てこなかった。

息が詰まりそうになる。自分の名前すら思い出せないなんて――そんな馬鹿な話があるか?

ふと左目が見えないことに気づき、急に寒気が背中を走った。


「……目……なんで……?」


右手で覆ったけど、そこには光も色も何もない。ただの虚無だ。

そして、瞼の下はへこんでいる。

ひゅ、と自分の息が鳴った。

そのことに気づいた途端、胸がざわざわしてくる。まるで、何か大事なものを失った感覚だ。


「……どうして……」


呟きに答えるように、突然扉の向こうから軽やかな足音が響いた。

リズムを刻むような音が近づいてきて、扉が静かに開いた。


「目が覚めましたか?」


低く柔らかな声が耳に届く。目を向けると、そこには信じられないほど美しい人物が立っていた。

淡い銀色の髪が艶やかに揺れて、月明かりを帯びたような白い肌。蜂蜜の色の瞳が夜闇を裂くように輝いている。

男か女か判別がつかない端整な顔立ちで、装いも隙がなく整っている。


「お初にお目にかかります。私は素馨そけい――この楼の主をしております」


低く透き通る声が名乗りを告げる。

その声に引き寄せられるように、俺はただじっと相手を見つめていた。


「まず確認ですが――あなた、名前は分かりますか?」


柔らかく問いかけながら、素馨と名乗った人は俺の近くへと膝をつく。

俺は言葉が出てこない。名前を……言おうとするたび、何も浮かばない。

焦りと戸惑いで喉が詰まったような気分になる。


「……分かりません。俺……何も……」


掠れた声でやっとそう答えると、素馨は一瞬だけ目を細め、すぐに静かに頷いた。


「……そうですか。無理もありませんね。あの状態でここに運ばれたのですから」

「……あの状態?」


聞き返す俺に、素馨は微笑む。だけど、その微笑みはどこか底が知れないものだった。


「あなたがここに来たときは瀕死手前でしたからねぇ……どうにか命も意識も繋げて良かった」


その言葉に、俺は眉を寄せた。けれど、それ以上追及する余裕はない。

俺は自分が何をすればいいのか、どうしていいかわからなくなっていた。


「これもご縁ですね。何かと不安でしょうが、大丈夫です。ここであなたの面倒を見ましょう」


素馨がさらりと言う。その態度はあまりに落ち着いていて、逆に俺は戸惑った。


「で、でも……俺、何も覚えてないし、役に立てる自信が……」


俯く俺に、素馨は柔らかく笑った。


「それなら回復してから考えればいい。無理をする必要はありません。ただ――あなたは勤勉そうに見えますし、いずれ下働きとして働いてもらえれば十分です。本当は店に出てほしいくらいですが……それは少し無理そうですからね」


俺は目を見開いた。こんな自分を信じてくれるのか?そう思うと、少しだけ気持ちが軽くなった気がした。しかし言葉にはどこか含みがあるものの、素馨はにっこりと微笑むばかりだ。


「……分かりました。お世話になります」


そう答えると、素馨は満足そうに頷いた。


「いい返事です。それでは、まずはゆっくりと休んでください。困ったことがあれば、私を呼びなさい」


俺の右手に絡む組紐に、素馨の視線がふと落ちた。何か意味ありげなその視線に気づいたが、聞くことはできなかった。


「では――どうぞお休みを。ここから新しい日々が始まりますよ」


そう言い残して、素馨は部屋を出ていった。

取り残された俺は、胸に重たい不安を抱えながらも、疲れに負けて目を閉じた。

記憶を取り戻せるのかも分からないまま――。

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