俺がこの場所で目を覚ましてから、数日が経った。
最初のうちは身体が鉛のように重く、起き上がるのもやっとだったが、素馨さんの手厚い看護と薬湯のおかげで、徐々に体調が戻ってきた。
「……だいぶ顔色も良くなったようですね」
部屋の障子を静かに開けて入ってきた素馨さんは、手に茶托を乗せた盆を持っていた。
その所作は優雅で、少しの隙もない。
「おかげさまで……本当に、ありがとうございます」
俺が頭を下げると、素馨さんは軽く微笑んだ。
「よろしい。それで……体調が回復したのであれば、これからの話をしないといけませんね」
盆を置き、向かいに腰を下ろす。その蜂蜜色の瞳がじっと俺を見据えた。
緊張感が背筋を走る。
「覚えていないというのは、どうにも困りますね。名前も、故郷も、目的も――すべてが謎のままでは、私としても扱いに困ります」
「……それは、俺自身が一番困ってますけど……」
自嘲気味に言うと、素馨さんはふっと笑った。
「冗談ですよ。ただ、遊郭という場所は、人を受け入れる以上、ある程度の形を整える必要があります」
「……形、ですか?」
「はい。まず名前がないのは、非常に不便です。呼び名がなければ、周囲の者も接しにくい。いっそ、ここでの名前を一つ決めておきましょう」
「名前……俺に?」
自分にはふさわしくないような気がして、つい眉を寄せる。
だが、素馨さんはそんな俺を見て少しだけ目を細めると、まるで何かを思いついたかのように微笑んだ。
「どうですかね――『芙蓉』という名前は」
「芙蓉……?」
「ええ。芙蓉は水辺に咲く花です。とても清らかで、儚げで……しかし確かに根を張り、存在感を放つ。あなたを見ていると、その花が思い浮かぶ」
その言葉を聞いて、俺は首を傾げる。
俺が芙蓉……清らかで儚げ? そんな柄じゃない気もするが……。
「でも、そんな綺麗な名前……俺に似合わないんじゃ……」
俺がぼそっと言うと、素馨さんはくすりと笑った。
「似合うかどうかは、あなたがこれから決めることですよ。名前というのは、自分で作り上げていくものですから」
その言葉には妙な説得力があった。
しばらく悩んだ末に、俺は小さく頷いた。
「……分かりました。これからは、芙蓉でお願いします」
「いい返事です。では、改めて――
素馨さんは満足げに微笑み、座り直した。
「もちろん、無理をさせるつもりはありません。まずは下働きから始めて、少しずつ慣れていけばいい。掃除や洗濯、雑用が主になりますが、分からないことは周りに聞けば教えてくれます。ここはね、他の遊郭と違い……居心地は悪くないと思いますよ。私の自慢の一つです」
「はい……ありがとうございます」
俺が頭を下げると、素馨さんは立ち上がり、扉へ向かう。
その後ろ姿を見ながら、自分の胸に手を当てた。
芙蓉……新しい名前。
記憶が戻るまで、この名前で――ここでの生活を受け入れるしかない。
「……頑張ろう、俺……いや、芙蓉」
小さく呟いた言葉は、自分への誓いだ。
※
翌日。
用意された衣服に着替えると、素馨さんに案内され、俺は馨華楼の広間へと連れてこられた。
雅やかな装飾が施された空間には、既に十数人の人影が集まっている。
艶やかな着物や華やかな装いを身に纏った人々――いや、人だけではない。猫の耳が揺れる者、狐の尾が揺らめく者、さらには透けて見えるような霊的な存在まで。
「……」
その光景に圧倒されていると、素馨さんが静かに声をあげた。
「皆さん、お静かに」
その一言で広間のざわめきがぴたりと止む。全員の視線が俺と素馨さんに集まった。
「こちらは、今日から馨華楼で共に暮らすことになった新しい仲間です。芙蓉、と呼んであげてください」
素馨さんが俺の背を軽く押す。
緊張しながら一歩前に出た俺は、軽く頭を下げた。
「……芙蓉です。お世話になります」
そう言うと、またざわざわとした声が広間に響く。
「ほう、なかなか上品な顔立ちだな」
「髪が艶やかねぇ……これはまた、新しい風が吹きそう」
「ふん、見た目だけで何ができるってんだか」
それぞれに感想を呟く中、猫耳の女性が足音を忍ばせて俺に近づいてきた。
その目は琥珀色に輝き、口元には少し意地悪そうな笑みが浮かんでいる。
「ふふ、よろしくねぇ、新入りさん。私は牡丹よ。見習いだけど、何でも聞いてちょうだい。せっかくだもの、仲良くしましょうよ!」
「……よろしくお願いします」
軽く会釈すると、牡丹さんはくすっと笑い、尻尾をふわりと揺らして引き下がった。
その背後から今度は、狐の耳と尾を持つ長身の男がやってくる。
「俺は蘇芳だ。面倒事は嫌いだから、俺の邪魔だけはするなよ」
「……はい、わかりました」
どうやらあまり愛想がいいタイプではないらしい。だが、素馨さんの視線を意識しているのか、そこまで険しい態度ではなかった。
次にやってきたのは、体がほんのり透けて見える女性だ。彼女は微笑みながら、俺の顔をじっと見つめる。
「私は瑠璃。元は人間だったわ。今は少し、幽霊みたいなものだけど……よろしくね」
その言葉に少し驚いたが、どうやらこの場所には本当に様々な事情を持つ者が集まっているらしい。
「……こちらこそ、よろしくお願いします」
俺がまた頭を下げると、広間の奥で控えていた者たちも次々と自己紹介を始めた。
「おいおい、みんな焦りすぎだろ。俺は黎明だ。なんか困ったことがあったら言えよ。手を貸してやる」
「いらぬお節介は控えなさい、黎明。私は藤花。顔が良いからって調子に乗らないことね」
冗談めかしながら、けれどどこか親しみを込めて言葉をかけてくれる者たち。
彼らの言葉や仕草から、この場所には暗黙のルールや秩序がしっかり根付いていることが伝わってくる。
素馨さんは全員の様子を見渡してから、軽く手を叩いた。
「皆さん、芙蓉が落ち着くまで温かく見守ってあげてください。何か問題があれば私が責任を持ちますので」
その言葉に、全員が「心得ました」と口々に答えた。
素馨さんは俺に目を向けて微笑む。
「さあ、芙蓉。これがあなたの新しい家族です。心配しないで、ここで新しい日々を始めましょう」
「……はい」
俺はまだ緊張していたが、周囲の暖かな目線が、少しだけ不安を和らげてくれた気がした。
こうして、馨華楼での新しい生活が始まった。