馨華楼での暮らしが始まって数日が経った。
慣れない生活の中、俺は毎日手探りで過ごしていた。朝は早く、掃除や食事の手伝い、洗濯物の運搬など、体が覚えるより先に動かなければならない仕事が次々と押し寄せる。
今も雑巾を手に、廊下の床を丁寧に磨いているところだ。
とはいっても、この手の仕事はあまり苦痛に思うことが少ない。記憶がなくなる前もそんな風に過ごしていたのかもしれないな、と思う。
「……これでよし、と」
腰を上げて雑巾を絞りに水桶へ向かうと、背後から軽い足音が聞こえた。
「芙蓉、掃除、そんなに念入りにやる必要ないよ。床が透けちゃうよ」
声の主は、馨華楼では俺と同じく下働きのひとり、猫又の
灯は大きな耳をぴょこんと動かしながら、俺の近くに座り込む。
「……透けることはないと思うけど」
「冗談、冗談。けど、そんなに真剣にやらなくても大丈夫だよ。どうせまたすぐ汚れるんだから」
灯は大きな瞳を輝かせながら笑った。その仕草に少し気が緩む。
「でも、やれることをやらないと、申し訳ないから」
「真面目だねぇ。でもさ、あんまり気張りすぎないほうがいいよ。ここではみんな、それぞれ適当にやってるもんだから」
「わかったよ。透けない程度にするよ」
そう返すと、灯は楽しげに笑った。
灯の言葉に「適当」という単語がやけに印象に残る。馨華楼の住人たちは、互いを気遣いながらも干渉しすぎず、どこか自由に振る舞っている。
不思議な空気だ、と改めて思う。
朝から夕方までは店の中のことを整えるのが下働きの役目だ。
それぞれに役割は分けられており、休憩時間もちゃんと決められている。
素馨さんが言うように居心地は悪くないどころか、良い方ではないだろうか。
他の遊郭を知らないから言えることだが、仕事をしつつ色々と話を聞く上では、酷い働かせ方をする場所もあるらしい。
俺がどういう経緯でここに辿り着いたかはわからないが、ここで良かったのだと思う。
※
夜になると、馨華楼は様変わりをする。
数々の灯が店内を彩り、絶妙に強すぎず弱すぎずで焚かれた香が周囲に漂うと、たぐいなき幽玄の世界だ。
その夜、大広間で宴席が始まるという話を聞いた。
粗方の雑用を終えた俺は、気になって大広間の近くへ足を運んだ。
隙間から覗くと、そこにはまばゆい光景が広がっていた。
天井から吊り下げられた絹の布が揺れ、薄明かりの中で紅や金の色が流れるように踊っている。
その中で艶やかな衣装に身を包んだ娼妓たちが、華やかな装飾の中で客をもてなしていた。
客たちは上機嫌で笑い、盃を傾ける──その優雅な雰囲気に、俺は思わず息を呑んだ。
「……こんな世界があるなんて……」
呟いた瞬間、視線が合った。
煌びやかな衣を纏った年配の男が、こちらをじっと見ている。
目尻に皺を寄せ、にやりと笑ったその顔が、襖の隙間から俺を覗き込んできた。
「そこの坊や、何をしているんだ?」
思わぬ声掛けに俺は驚き、慌てて隙間から離れた。
しかし男は立ち上がり、こちらへ歩いてくる。
「いい顔をしているな。少し話をしようじゃないか」
俺が後退るより早く、男は俺の腕を掴んだ。
「すみません!俺は……!」
必死に謝罪するも、男は俺を無理に引き寄せようとする。
「まあまあ、そう遠慮するな。馨華楼の子なら、客を楽しませるのが役目だろう?」
その瞬間、後ろから低い声が割り込んだ。
「お客様、申し訳ありません。その者はまだ新入りでして、宴席には不向きでございます」
振り返ると、そこには蘇芳が立っていた。
彼は落ち着いた声で言いながら、穏やかな笑みを浮かべている。
「へえ、新入りか。だが、ここにいるなら客をもてなすのが当然じゃないのか?」
「ごもっともです。しかし、この者はまだ心得も浅く、お客様を十分に楽しませることができません。失礼があってはいけませんので、どうかご容赦を」
蘇芳の言葉は冷静だが、言葉の端々にはしっかりとした威圧感がある。
男は鼻を鳴らして手を離した。
「まあいい。つまらない失態を見せられるよりはマシだな」
そう言って男は踵を返し、大広間へと戻っていった。
蘇芳はその後姿を見送ると、ゆっくりと俺に向き直った。
「芙蓉、お前……」
その低い声に、俺は身を竦ませた。
「……すみません!覗いただけで、そんなつもりは――」
「言い訳をするな」
短く言われ、俺は息を呑む。蘇芳の目は冷たく、鋭い光を放っていた。
「お前がどんなつもりだったかは関係ない。結果的に、客に目をつけられるような行動をしたのは事実だ」
その言葉に、俺は小さく頷いた。
「ここでは規律が全てだ。それを破る者は容赦なく処罰される――例え下働きであろうとな」
厳しい口調に、俺は身を竦める。そこへ牡丹さんが歩み寄ってきた。
「蘇芳、まあまあ。芙蓉もまだ慣れてないんだし、そんなに怒らなくてもいいじゃない」
「だが規律は――」
「蘇芳、規律ばかりじゃ人は育たないわよ。次は気をつければいいだけの話でしょう?」
牡丹さんと蘇芳の間で火花が散りそうな雰囲気を察して、瑠璃さんが口を挟む。
「蘇芳、牡丹の言う通りよ。芙蓉も反省してるし、それで十分よね?」
蘇芳は不満そうに眉を寄せたが、やがて溜息をついた。
「……次はないと思え」
そう言い捨てると、蘇芳はその場を去っていった。
牡丹さんが俺の肩を軽く叩く。
「ほら、これで一件落着。次は気をつけるのよ」
「はい……ありがとうございます」
馨華楼の厳しい規律と温かな支え――その両方を感じながら、俺は深く頭を下げた。
俺の胸には、蘇芳さんの言葉が重く突き刺さっていた。次は絶対に失敗しない――そう誓いながら、拳をぎゅっと握った。