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長い廊下を雑巾で磨き上げ、窓を開けて新鮮な空気を入れ替える。

そうすると心地よい風が頬を撫で、どこか穏やかな気持ちになれる気がする。

ここに来て既に結構な日が経つ。漸く仕事にも慣れてきて、俺は息を吐いた。

そんな時だった――不意に感じた違和感。

重い空気が周囲を包むような感覚に、手を止めて顔を上げる。

遠くの玄関先、馨華楼の門の向こうに人影があった。


その人影は――男だった。


鋭く冷たい気配を纏い、何もかもを見透かしているような目で立っている。

銀色に近い髪が光を受けて輝き、黒い衣を纏った姿は、まるで闇と光が交錯したような不思議な印象を与える。



「……あの人は……」


思わず呟いた声は自分にも聞こえないほど小さかった。

目が合ったわけでもないのに、その気配だけで背筋が寒くなる。

胸の奥で何かがざわつくような感覚――その人物が馨華楼の中へと消えていくまで、俺はただ見つめることしかできなかった。



夕方になり、素馨さんに呼ばれ、俺は奥座敷へと足を運んだ。

その部屋には、先ほど玄関先で見かけた男が座していた。


「おや、君は……」


男は俺に視線を向け、薄く微笑む。

その笑みにはどこか冷たさが混じり、内心で一歩後ずさりたくなる。


「玖珂。こちらは芙蓉――馨華楼での新しい住人だ」


素馨さんの柔らかな声が、緊張感を和らげるように響く。


「そして芙蓉、こちらが玖珂。この楼の守りを担う存在であり――君をここに連れてきた人だよ」


素馨さんが俺の方に視線を向ける。

それを聞いて、思わず玖珂の顔を見る。

助けてくれた……? この人が?


「あ、ありがとうございます……俺、命を助けられたんですよね……」


精一杯感謝の言葉を述べるが、玖珂は笑みを深めるだけで何も言わない。

その笑顔がどうにも落ち着かない。

彼が何を考えているのか、全く分からなかったからだ。


「ふふ、まあ、気にしないでくれ。面白そうだったから拾っただけだ」


玖珂はあっけらかんと言い放つ。

その言葉に、胸の中へ重くのしかかった。

拾った、とはどういうことだろう? 命を助けてくれたことは有難いはずなのに――どうしてかこの人の存在に対して、不安を拭い去れない。


「玖珂、余計なおしゃべりはやめてほしい」


素馨さんが柔らかく笑いながら口を挟む。

その声には、玖珂の言葉を遮る軽い威圧が混じっているようだった。


「余計とは酷いね。私はただ、彼に正直に伝えているだけだよ」

「正直でなくてもいい場合がある。……玖珂、君の性分は分かっているが、深入りはしないでくれ。彼に関しては特にね」


素馨さんの視線が鋭さを増す。

しかし、玖珂は飄々とした態度を崩さない。


「分かったよ。……ただ、少し遊ばせてもらうくらいは構わないだろう?」

「君の『遊び』が問題なんだがね」


素馨さんは深く息をつき、俺に目を向けた。


「芙蓉、この人には感謝してもいい。ただし――深く付き合いすぎないことだ」

「えっ……」


戸惑う俺に、玖珂がくすりと笑う。


「なんだいその顔。心配しないで。君にとっては、私はただの恩人だよ」


玖珂がそう言いながら立ち上がり、俺の肩に軽く手を置く。

その手の重みと冷たさに、思わず身が固まった。


「さ、私はそろそろ行くよ。またいずれ会おう、芙蓉」


その言葉を残して、玖珂は部屋を後にした。

残された俺は、肩に残る微かな感触に動けなくなる。


「……彼は危険な存在だよ。けれど、彼がいなければ馨華楼は存続できない。だからこそ、慎重に接しなさい」


素馨さんの声が、遠く響くように感じた。

俺はただ、玖珂という得体の知れない存在に圧倒されていた。

玖珂が部屋を去った後も、その独特な存在感は空気に残り続けているようだった。

俺は肩に触れた感覚を思い出しながら、どこか重たい気持ちを抱えていた。


「芙蓉、大丈夫かい?」


素馨さんの優しい声が響き、ハッと我に返る。

その視線には心配と少しの警戒が混じっているように見えた。


「ええ、大丈夫です。ただ……少し圧倒されただけで」

「ふむ。それならいいが、彼のことは、あまり気にしすぎないことだよ。彼が君をここに連れてきたのは事実だが……彼が求めているのは君の感謝ではない」


その言葉に、俺は眉を寄せる。


「じゃあ、彼は何を……?」

「それが分かれば、苦労はしないね。彼が興味を持つものは、時に危険なものでもある。君に何かを求めるようなら、必ず私に相談するんだよ」


素馨さんの目が鋭さを帯びた。

その鋭い視線に何かを言い返す気力もなく、俺はただ小さく頷いた。



自室へと帰る廊下で、俺は先ほどのことを思い返していた。

玖珂の冷たさを含んだ笑みと、素馨さんの「深入りするな」という言葉が頭から離れない。


「……何が危険なのか、分からないから余計に怖いんだよな」


誰に言うでもなく呟くと、背後から軽い声がかけられた。


「独り言? それとも幽霊とおしゃべり?」


振り返ると、猫又の灯がこちらを見ていた。

彼の琥珀色の瞳は相変わらずどこか無邪気で、少しだけ安心感を与えてくれる。


「灯か……いや、ただ考え事してただけ」

「ふーん、考え事ねぇ。どうした?」

「さっき、その……玖珂さんと言う人と会って」

「ああ」


どうやら彼は玖珂の訪問を知っているようだ。

俺が頷くと、灯は俺の隣に立つ。


「ううん……玖珂様はね、馨華楼にとっては大事な存在だけど……まあ、ちょっと普通じゃないからね。初めて会ったら、そりゃびっくりするよ」

「やっぱりそうなんだな」

「うん。でも、素馨さんが言っただろ?深入りしなきゃ、普通にしてれば大丈夫だから」


そう言う灯の言葉には、不思議と安心感があった。

彼もきっと、玖珂に対して警戒心は持っているのだろう。

それでも、うまく付き合う方法を心得ているようだ。


「まあ、俺たちは俺たちの仕事を頑張ればいいんだよ。それで十分」

「……そうだな。俺も、やれることをやるしかないか」


そう答えると、灯がにっと笑った。


「そうそう、それでいいんだよ。あと、芙蓉は結構真面目だよねぇ。いい子ちゃんって感じ?」

「そんなつもりじゃないけど……仕事覚えるのでいっぱいいっぱいで」


言い訳がましく答えると、灯はケラケラと笑い、俺の背中を軽く叩いた。


「じゃあさ、いっそ仕事に集中して忘れちゃいなよ。あの人のことなんてさ!」


灯がそう言い残しながら去っていく。

俺は少し気が楽になり、また自室へと歩き始めた。

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