夜の帳が降り、馨華楼が静寂に包まれる時間。
華やかな宴席も終わり、客たちが帰路につき、楼の中には僅かな灯りと低い囁き声が残るのみだ。
この頃ではここでの生活にもすっかりと慣れてきた。
俺は用意された布団に横たわり、重たい瞼を閉じた。
日々の疲れで、すぐに意識は暗闇へと沈んでいく――けれど、今夜もまた、奇妙な夢を見るのだろうという予感が心の奥底にあった。
――名前を呼ぶ声が、する。
そんな夢。
いつの頃だろうか、見るようになった。
目覚めるとほとんどは覚えていないのだが、その声には確かな温もりがあって、夢から覚めた後でもそれだけは確りと覚えている。どこか懐かしく、心の奥を揺さぶるような響きだ。
「……くん……」
ほら、今も聞こえる。
夢の中で、自分の名前を呼ぶ声。
顔も姿も見えないのに、その声の主に対する感情だけが心に浮かぶ――温かさ、悲しみ、そして強い想い。
「……誰……誰なんだ……」
尋ねても、返事はない。風が木々を揺らす音だけが聞こえる中、声は次第に薄れていく。
いつも、そうだ。
その声には不思議な温かさがあった。けれど、誰の声なのか分からない。声を追いかけようとしても、霧のように漂うばかりで掴めない。
夢の中の景色はぼんやりとしていて、霧が辺りを覆っているようだ。何かが近くにいるような気配だけがあって、でも、はっきりした形は見えない。
「……お前は誰なんだ……」
名前を呼ぶ声は次第に薄れていき、やがて夢は闇の中に溶けていった。
そうして暗闇の中で、いつの間にか夢は終わりを迎える。
※
翌朝、目を覚ますと、胸の中に妙な感覚が残っていた。
誰かが俺を呼ぶ声――はっきりとしないけれど、きっとそれは名前だ。
どうして俺がその夢をみるのか分からない。けれどなぜかその声が懐かしく感じられる。
布団から起き上がり、顔を洗いに行く。冷たい水で顔をぬぐいながら、ぼんやりと夢の内容を思い出そうとするけど、ほとんど霧の中に消えたように思い出せなかった。
「夢?」
昼の休憩時間、庭で座っていた俺に、灯が首をかしげながら尋ねてきた。
猫の耳をぴょこんと動かしながら、隣にちょこんと腰を下ろしてくる。
「ああ、最近変な夢を見るんだ。名前を呼ばれる夢でさ」
「名前って、芙蓉って?」
「いや……芙蓉じゃないんだ」
俺がそう答えると、灯が驚いた顔をする。
「じゃあ何?」
「良く聞こえなくて分からないけど、名前なのはわかるんだよ。誰が呼んでいるのかも分からないし、どういう意味なのかもさっぱりだ」
灯は不思議そうに目をしばたたいた後、ぽん、と手を叩いた。
「それってさ、もしかして前の記憶と関係してるんじゃないの?」
言われてみればそんな気もするが……どうなんだろうか。
「でも……それが俺の記憶と関係あるかどうか、分からないんだ。ただ、妙にその声に安心する気がする」
「安心?」
灯が首をかしげた。
「ああ……なんというか、温かい感じがするんだよ。不思議だよな」
灯はじっと俺の顔を見てから、にやりと笑った。
「ふーん、なんだか面白そう。まあ、思い出したら教えてよ。俺も気になるし!」
「……気軽に言うなよ。俺この夢のせいであんまり眠れてないような……」
俺は苦笑いしながら、灯の無邪気な笑顔に少しだけ肩の力を抜いた。
※
その日の夜、また夢を見た。
「……くん……」
名前を呼ぶ声はいつものように優しく、でもどこか悲しげだった。
金色に輝く瞳が霧の向こうから俺を見つめる。手を伸ばそうとしても、指先が霧をすり抜けるような感覚に阻まれる。
「……誰なんだ?」
言葉を投げても、声は薄れていくだけだ。目が覚めた時には、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような気がして、寝苦しさだけが残った。
この夢の正体は何なのか――そして、呼ばれる名前が何を意味するのか。
少しずつ、この夢が俺の心をかき乱し始めていた。