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24

夜の帳が降り、馨華楼が静寂に包まれる時間。

華やかな宴席も終わり、客たちが帰路につき、楼の中には僅かな灯りと低い囁き声が残るのみだ。

この頃ではここでの生活にもすっかりと慣れてきた。

俺は用意された布団に横たわり、重たい瞼を閉じた。

日々の疲れで、すぐに意識は暗闇へと沈んでいく――けれど、今夜もまた、奇妙な夢を見るのだろうという予感が心の奥底にあった。


――名前を呼ぶ声が、する。

そんな夢。

いつの頃だろうか、見るようになった。


目覚めるとほとんどは覚えていないのだが、その声には確かな温もりがあって、夢から覚めた後でもそれだけは確りと覚えている。どこか懐かしく、心の奥を揺さぶるような響きだ。


「……くん……」


ほら、今も聞こえる。

夢の中で、自分の名前を呼ぶ声。

顔も姿も見えないのに、その声の主に対する感情だけが心に浮かぶ――温かさ、悲しみ、そして強い想い。


「……誰……誰なんだ……」


尋ねても、返事はない。風が木々を揺らす音だけが聞こえる中、声は次第に薄れていく。

いつも、そうだ。

その声には不思議な温かさがあった。けれど、誰の声なのか分からない。声を追いかけようとしても、霧のように漂うばかりで掴めない。

夢の中の景色はぼんやりとしていて、霧が辺りを覆っているようだ。何かが近くにいるような気配だけがあって、でも、はっきりした形は見えない。


「……お前は誰なんだ……」


名前を呼ぶ声は次第に薄れていき、やがて夢は闇の中に溶けていった。

そうして暗闇の中で、いつの間にか夢は終わりを迎える。



翌朝、目を覚ますと、胸の中に妙な感覚が残っていた。

誰かが俺を呼ぶ声――はっきりとしないけれど、きっとそれは名前だ。

どうして俺がその夢をみるのか分からない。けれどなぜかその声が懐かしく感じられる。

布団から起き上がり、顔を洗いに行く。冷たい水で顔をぬぐいながら、ぼんやりと夢の内容を思い出そうとするけど、ほとんど霧の中に消えたように思い出せなかった。


「夢?」


昼の休憩時間、庭で座っていた俺に、灯が首をかしげながら尋ねてきた。

猫の耳をぴょこんと動かしながら、隣にちょこんと腰を下ろしてくる。


「ああ、最近変な夢を見るんだ。名前を呼ばれる夢でさ」

「名前って、芙蓉って?」

「いや……芙蓉じゃないんだ」


俺がそう答えると、灯が驚いた顔をする。


「じゃあ何?」

「良く聞こえなくて分からないけど、名前なのはわかるんだよ。誰が呼んでいるのかも分からないし、どういう意味なのかもさっぱりだ」


灯は不思議そうに目をしばたたいた後、ぽん、と手を叩いた。


「それってさ、もしかして前の記憶と関係してるんじゃないの?」


言われてみればそんな気もするが……どうなんだろうか。


「でも……それが俺の記憶と関係あるかどうか、分からないんだ。ただ、妙にその声に安心する気がする」

「安心?」


灯が首をかしげた。


「ああ……なんというか、温かい感じがするんだよ。不思議だよな」


灯はじっと俺の顔を見てから、にやりと笑った。


「ふーん、なんだか面白そう。まあ、思い出したら教えてよ。俺も気になるし!」

「……気軽に言うなよ。俺この夢のせいであんまり眠れてないような……」


俺は苦笑いしながら、灯の無邪気な笑顔に少しだけ肩の力を抜いた。



その日の夜、また夢を見た。


「……くん……」


名前を呼ぶ声はいつものように優しく、でもどこか悲しげだった。


金色に輝く瞳が霧の向こうから俺を見つめる。手を伸ばそうとしても、指先が霧をすり抜けるような感覚に阻まれる。


「……誰なんだ?」


言葉を投げても、声は薄れていくだけだ。目が覚めた時には、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような気がして、寝苦しさだけが残った。


この夢の正体は何なのか――そして、呼ばれる名前が何を意味するのか。

少しずつ、この夢が俺の心をかき乱し始めていた。

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