夜になるたび、夢の中で聞こえる声が少しずつ鮮明になってきていた。
そしてその夜――俺は初めて声の主の姿をぼんやりと見た気がした。
夢の中は霧が漂い、相変わらず何もはっきりとしない景色。
だが、その中に人影が浮かび上がっていた。
「……誰だ?」
声をかけると、その影がゆっくりと振り返った。
金色の瞳が、霧の向こうから俺を見つめている。
「……君は……」
どこか懐かしい。胸の奥がじんと熱くなるような感覚。
けれど、名前も状況も思い出せない。ただ、その瞳の中に込められた優しさだけが、心に深く染み込んでいく。
「……誰なんだ…………!」
思わず手を伸ばした瞬間、人影はまた霧の中に消えていった。
※
目が覚めた時、胸の鼓動が早鐘のように鳴っていた。
翌朝、灯にこの夢のことを話すと、彼は真剣な顔で頷いた。
「金色の瞳、ねぇ。何だか妙に意味ありげな感じがするな」
「ただの夢かもだけど……俺が勝手に作り出した誰か、とかかな……?」
疲れてるのか?とも考えた。
しかしこの馨華楼は素馨さんの管理がきっちりとしているお陰で、慣れてしまえば疲労がたまるほどではない。
俺の言葉に、灯は首を振った。
「いやいや、芙蓉。普通の夢だったら、そんなに鮮明に印象が残るもんか?」
灯の言葉に俺は返す言葉が見つからず、少し視線を逸らす。
「どうなんだろうな……でも、今の俺にはどうしようもない。とりあえず、やるべきことをやるしかないだろうな……」
「ふーん。まあ、それもそうだけど……夢が何かの手掛かりにになるかもよ?お前、前のこと全然覚えてないんだろ?いうて気楽に考えろよ。根詰めても仕方ないって」
灯の気楽な笑顔に、俺は少しだけ気持ちが軽くなった。
その日の昼下がり。
素馨さんから呼び出され、楼主室に向かった俺は、そこで玖珂と向き合うことになった。
玖珂はいつものように優雅な微笑みを浮かべ、俺を上から下まで品定めするように見ていた。
「芙蓉。最近の暮らしぶりはどうだい?」
「おかげさまで、何とか……」
言葉を選びながら答えると、玖珂は満足そうに頷いた。
「そうか。それなら何よりだ。だが――どうにも君の装いが寂しく見えるのが気になってね」
玖珂が手を叩くと、傍らに控えていた者が鮮やかな布を広げた。
それは、見たこともないほど豪華な着物だった。深紅と金糸が織り込まれたそれは、馨華楼でも最高級の品に違いない。まるで花魁が着るような……。
「これを君に贈ろうと思ってね。気に入ってくれるかな?」
俺は目を見開き、すぐに首を横に振った。
「い、いえ、そんなもの、俺には身に余ります!」
「遠慮することはないよ。君に似合うと思ったから選んだだけさ」
玖珂の声は穏やかだが、その裏に隠された意図が見え隠れしていた。
「でも、俺は下働きです。それを着るのはさすがに……!」
そう言う俺を見て、玖珂の笑顔が少しだけ歪んだ気がした。
「君がどう思おうと、これは贈り物だよ。遠慮は不要だ」
そう言い切る玖珂の態度に、俺は答えを出せず、素馨さんの方を見た。
すると、素馨さんがやんわりと間に入るように口を開いた。
「玖珂、芙蓉はまだ新しい生活に慣れたばかりだよ。それに、この楼での規律を乱すような贈り物は控えてくれると嬉しいかな……芙蓉がそういう立場になったら山と贈ればいい」
玖珂が素馨さんに向けた視線は一瞬鋭く光ったが、すぐにまた穏やかな笑みを取り戻した。
「ふふ、なるほど。規律を守ることは大事だね。それならば、今回の話は忘れることにしよう」
玖珂はそう言って立ち上がり、俺に歩み寄る。
「芙蓉。遠慮深いところも魅力の一つだね。だが、覚えておいてほしい。私は君に力を貸すつもりだ。いつでも頼るといいよ」
玖珂の目が金色に光るのを見て、俺は思わず息を呑んだ。
彼の言葉は優しげだが、その奥底には何か別の意図が見え隠れしている気がしてならない。
楼主室を出た後、俺は灯に玖珂の話をした。
灯は目を丸くして、俺の話をじっと聞いていた。
「ふーん、玖珂様がねぇ……。何か企んでる感じ、した?」
「わからない……優しい言葉をかけてくれるんだけど、でもその裏に何かがある気がしてならないんだ」
灯は顎に手を当て、少し考え込んだ後、にやりと笑った。
「玖珂様は気まぐれで有名だからね。でも、芙蓉が気をつけてれば大丈夫だよ。素馨さんもきっと守ってくれるし」
「そうだといいけど……」
灯の励ましにもかかわらず、俺の胸の中には不安が残り続けていた。
そして夜、再び夢の中であの金色の瞳を見るたび、俺の心は揺れ動いていくのだった。