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26

馨華楼での日々が続く中、俺はこの場所に少しずつ馴染み始めていた。

けれど、それが完全に「居場所」と言えるかどうかは、まだ分からない。

名前も知らない「誰か」が俺を呼ぶ――そんな夢を見るようになったからだ。

夢の中で、その声は風のように柔らかい。

それでいてどこか懐かしく、胸を掴まれるような切なさが混じっている。

最初は言葉ではなく音のようにしか聞こえなかったその声が、最近では少しずつ明瞭になり始めている。


「……くん……」


はっきりとした言葉が耳に届いた瞬間、目を覚ます。

目の前には現実の馨華楼。朝の明るい光が差し込む部屋の中で、俺は布団の中でしばらく動けなかった。


夢の内容は覚えているのに、どうしてもその声の主の顔が浮かばない。

けれど、その瞳――金色の瞳だけは強烈に記憶に残っている。


「……誰なんだ……」


胸に湧き上がるこの感情は、何なのだろう。


夢に呼び起こされるように、右手の組紐に触れた。指先に伝わるその感触は、どこか安心感を与えてくれる。けれど、同時に言葉にできない不安をもたらすものでもあった。


「芙蓉、起きてるか?」


灯の声が部屋の外から響いた。


「あ、ああ。すぐ行く」


夢のことを振り払うように、俺は大きく息を吐いて床を蹴った。



その日の午後、掃除を終えていると、玖珂がふらりと現れた。

彼がいつも通りの穏やかな笑みを浮かべて俺の方を見つめている。


「芙蓉、少し話さないか?」


声をかけられ、俺は戸惑いながらも頷いた。

玖珂は俺を縁側へ誘い、座るように促す。


「君がここに来て、もうしばらく経ったな。馴染めてきているようで何よりだ」


玖珂の声は落ち着いていて、耳心地が良い。それに、彼が俺を見つめる目には優しささえ感じる。けれど、どこか……違和感を感じてしまうのはどうしてなのか。


「……はい。皆さんに助けてもらって、何とかやれています」


そう答えると、玖珂は満足そうに微笑んだ。


「ここは安心できる場所だろう?辛いことがあれば、私に言えばいい。ここにいる間は、私が君を守る」


その言葉に、俺は息を呑んだ。玖珂が俺を気にかけてくれるのは嬉しい。けれど、その言葉の裏にある「ここにいる間は」という条件めいた響きが、どうしても胸に引っかかった。


玖珂がさらに言葉を続ける。


「過去のことなんて気にしなくていい。思い出す必要なんてないんだ。大切なのは、君がこれからどう生きていくかということだよ」


俺の心が揺れる。

確かに、過去を思い出せず苦しむこともある。

思い出すことに意味があるのだろうか、と疑問に思う瞬間も少なくない。


けれど……。


組紐に触れる指先に、微かな震えが走った。

思い出さなければいけない――そんな気がするのだ。

夢の中の声や金色の瞳、そして組紐が俺にそう語りかけているようで。


「玖珂様……ありがとうございます。でも、俺には……」


玖珂の視線が鋭くなったように感じた。

けれど、彼はそれをすぐに穏やかな笑みに戻して言う。


「焦ることはない。ここで安心して暮らせば、それでいいんだよ」


玖珂の言葉は甘く、魅惑的だった。

その優しさに心を許しそうになる自分がいる。けれど、心の奥底で何かがそれを拒む。


「……そうですね。考えてみます」


それ以上言葉を続けられなかった。玖珂は満足したように頷き、そっと俺の肩に手を置いた。


「いつでも私を頼っていい。さあ、そろそろ行こうか」


そう言って立ち上がる彼を見上げながら、俺の心にはどうしても割り切れない感情が残っていた。


その夜、俺は再び夢を見た。

声がはっきりと聞こえる。


「どこにいるんだい……」


金色の瞳がぼんやりと浮かび上がる。

顔はまだ霞んでいるが、その目だけははっきりと俺を見ていた。


「……君に会いたい」


目を覚ました時、俺は残っている右目から涙が溢れ、頬を伝っているのを感じた。

そして気づくと、何か歌を口ずさんでいた。


「……これ、なんだ……?」


その歌は、自分の記憶のどこにもないものだった。

なのに、どうしてこんなにも自然に口をついて出るのか。


「……俺は……何を忘れているんだ……?」


胸に手を当てた俺は、眠りにつくことができなかった。

玖珂の甘い言葉が耳に残る中、夢の中の声が俺を引き戻そうとしている――そんな感覚が消えなかった。

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