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俺の日々は、慌ただしくも平穏だった。

掃除や食事の準備、洗濯――どれも地道な仕事だが、それが日常の軸となる。

けれど、そんな生活の中で、俺は自分の体に奇妙な違和感を覚えるようになった。


例えば――。


「あれ、芙蓉。そんなに重い荷物、ひとりで持てるの?」


洗濯物が詰まった重い桶を軽々と運ぶ俺に、牡丹さんが目を丸くした。

自分では特別なことをしているつもりはない。

だが、彼女の驚いた顔を見て初めて気づく。

普通の人間ならこんなに簡単に動かせないのだ、と。


「……そんなに重いのか、これ」


俺が首をかしげると、牡丹さんは「まあね」と苦笑しながら呟いた。


「それに、芙蓉ってほんとタフだよね。朝から晩まで動いても全然疲れてない感じだし」


言われてみれば、ここに来てから体調を崩したことがない。

それどころか、どれだけ動いても疲労を感じることが少なくなっていた。

慣れるまでは、それこそ「疲れたな」と感じることはあったが……最近はほとんどないことに、言われて気付く。


「そうか……あんまり意識してなかったけど」


心の中で、じわりと不安が広がる。

俺は人間であるはずだ。なのに何故……?

さらに妙なのは、俺が周囲に及ぼす影響だった。


廊下を掃除している時、灯が俺の方を振り返るなり、一瞬だけ耳をぴくりと動かし、後ずさるような仕草を見せた。


「灯?どうかした……?」


俺が問いかけると、灯はすぐに「なんでもない!」と笑顔を作った。

けれど、彼の声にはほんの少しだけ震えが混じっていた。

似たようなことが他の住人たちにも起こる。

近づいた瞬間に一瞬だけ身を強張らせたり、妙に目を逸らしたり――その後は何事もなかったかのように振る舞うが、俺にはその一瞬の違和感が気になって仕方がなかった。


「俺、なんかおかしいのか……?」


呟きながらふと左目に手を触れる。

そこは見えない。光もない。ただの虚無だ。

なのに、時折そこが痛むような感覚があった。鋭い痛みではないが、ずきり、と重い痛みが胸に響くような感覚だ。


そして、夢も――。


その夜、俺はまたあの夢を見た。

金色の瞳がぼんやりと浮かび上がり、俺の名前を呼ぶ声が聞こえる。


「……くん……」


俺の名であるのに、その名がよく聞き取れない。

けれど、懐かしいような、その声。その温かさに包まれる感覚が、俺の胸を締め付ける。


「会いたい……」


夢の中で、その声が確かにそう言った。

俺は何かを答えようとしたが、そこで目が覚めた。

夢の内容を思い出すたび、胸が痛む。

そして気づくと、腕に巻かれた組紐を片手でなぞっていた。


「そういえば、これ、どこで…………?」


思い出そうとしても霞がかかって――俺には分からない。

起き上がり布団から抜け出して、そっと障子を開ける。

闇の中に三日月が浮かんでいた。それを見上げながら、俺は小さく溜息を吐いた。


名前もわからない、誰か。いつか、会えるのだろうか……。



その翌日、広間での掃除を終えて縁側で一休みをしていると玖珂が現れた。

相変わらずの柔らかな笑みを浮かべ、悠然とした足取りで俺に近づいてくる。


「芙蓉、調子はどうだい?」

「……はい、まあ、なんとか」


玖珂の優しい声に、一瞬心が和む。

けれど、同時に彼の目の奥にある何かが、俺を不安にさせる。

信じたいけどどこか信じられない、その微笑み。


「よかった。君がここで元気に過ごしてくれるのは、私にとっても嬉しいよ」


玖珂はそう言いながら、俺のすぐ横に腰を下ろした。

その仕草は優雅で、言葉も柔らかい。だが、どこかその態度に息苦しさを感じるのは、気のせいだろうか。


「芙蓉、ここにいる間は、何も心配する必要はない。ここは私の領域だからね。おかしなものは入ってこれないんだ」


玖珂の言葉は甘く響く。

だが、胸の奥で何かがざわめくような感覚があった。


「ありがとうございます……」


俺は言葉を絞り出したが、心のどこかで「それでいいのか」と問いかける自分がいる。


「もう少し芙蓉が心を開いてくれると私は嬉しいのだけれどね」


そう言いながら玖珂が俺の肩へと手を置いて、耳の近くで囁く。

俺は咄嗟に身を強張らせた。

その時、素馨さんの声が響いた。


「少しよろしいでしょうか?」


玖珂が振り返ると、素馨さんが廊下の奥からゆっくりと歩いてくる。

その顔には笑みが浮かんでいたが、目の奥には冷静な光が宿っている。


「芙蓉にあまり手を出さないでいただきたい、とお願いしたはずですが」


その言葉に、玖珂は薄く笑った。


「手を出す?そんなつもりはないよ。ただ、私は彼がここで幸せに暮らせるように手助けをしているだけだ」

「……玖珂。私はあなたがどういう方か、よく知っています」


素馨さんの声は冷静だが、どこか鋭いものを含んでいた。


「彼にはまだ、この場所に慣れる時間が必要です。あなたのペースで引き込むのはやめていただきたい」


玖珂は肩をすくめ、軽い調子で答えた。


「分かった、分かったよ。そんなに怒らないで。美しい顔が台無しだよ、素馨。ただ、彼を手助けしたいだけさ」


玖珂が立ち上がると、俺の方を振り返って柔らかく笑った。


「芙蓉、困ったことがあったら、私を頼るんだよ。私はいつでも君の味方だから」


そう言って去っていく玖珂の後姿を、素馨さんはじっと見つめていた。

俺がその場に立ち尽くしていると、素馨さんが微笑んで近づいてきた。


「玖珂の言葉に惑わされないことです、芙蓉。彼の言葉は甘い蜜のようですが、裏があることを忘れないでください」


その言葉に、俺はただ頷くことしかできなかった。

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