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ここでの生活も当たり前になってきた。

しかし、玖珂の存在だけは、俺にとってどこか特別な重圧を感じさせている。

何かと話しかけてきたり贈り物があったりして、表面上は優しい。

玖珂――馨華楼の守りを担う存在でありながら、その圧倒的な存在感と奇妙な温かさで俺を包み込む。

けれどその温かさは、何か別のもの――言葉にできない危うさを含んでいる気がしてならなかった。どうにもおかしい。言葉に出来ない違和感。

そんな中で朝から晩まで下働きの仕事をしていると、忙しさがかえって頭を空っぽにしてくれた。

その夜、仕事を終えた俺は部屋で休んでいた。風通しを良くするために、廊下側の障子を少し開け、外に続く障子も開けていた。

心地よく夜の風が吹き抜けていく。

一人きりの時間は貴重だ。

手にしていた組紐を指でいじりながら、知らない誰かの声が響く夢のことを思い出していた。


「……なんで、こんなものを持ってるんだろう」


呟いた時、ふと気配を感じて振り返る。

そこには、玖珂が立っていた。


「休んでいるところ、邪魔したかな?」


柔らかい声だ。しかし、声の奥底にある微かな棘のようなものが、俺の皮膚を撫でるように伝わる。

俺が答えるよりも先に、玖珂は後ろ手に外の障子を閉めた。

その動作がゆっくりすぎるせいか、空気がじわりと閉じ込められていくような錯覚を覚える。


「……玖珂様、あの……何か御用でしょうか?」


心臓が嫌なリズムで高鳴るのが自分でもわかる。


「いや?ただ、君の顔が見たくなったんだ」


そう言いながら、玖珂は俺の目の前にしゃがみ込む。

その目は笑っているけれど、どこか見透かすような光を宿していた。


「ここでの生活はどうだい?もう慣れたかな?」

「ええ、皆さんが親切なので、なんとか……」


そう答えると、玖珂の手がそっと俺の組紐に伸びた。


「これ……大切にしてるんだね」


俺は思わず手を引いたが、玖珂は組紐をじっと見つめながら続ける。


「何か思い出の品なのかい?……それとも、誰か特別な人からもらったものかな?」

「い、いえ……これは……その、はじめから……」


何と答えればいいのか分からず、視線を逸らす。

玖珂は組紐から目を離し、俺の顔に視線を移した。


「君がどんな過去を持っているのか、私には分からない。だけどね……」


玖珂の指が、そっと俺の頬に触れた。

その手のひらは温かいはずなのに、ぞくりとする感覚が背中を駆け上がる。


「ここにいる限り、君は何も心配する必要がない。私がすべてを守るよ」


玖珂の声が甘く響く。

その響きに引き寄せられるように、身体が硬直して動けなくなる。


「君が他の誰かのものだった過去なんて関係ない。ここでは君は私のものだ――それだけで十分だろう?」


玖珂の顔が近づいてくる。

俺は後退ろうとしたが、玖珂の手が俺の肩を掴んでそれを許さなかった。


「玖珂様……何を……!」

「何をって――当然のことをしているだけだよ」


玖珂がさらに近づき、唇が触れそうになった瞬間――扉が勢いよく開いた。


「芙蓉!大変だ!」


灯の声が響く。

その声に驚いた玖珂が手を離し、俺は咄嗟に立ち上がって距離を取った。


「……灯、どうしたんだい?」


玖珂は落ち着いた声で問いかけるが、その目は少しだけ険しい光を帯びていた。


「ええと、その芙蓉が手伝いに来ないから……ちょっと様子を見に来まして!」


灯はわざとらしい言い訳を口にしながら、俺に視線を送る。

その目には、「大丈夫か?」という問いが込められているのが分かった。


「そうか。それなら私はおいとまするとしよう」


玖珂は軽く肩をすくめ、扉の外へと歩き出す。

最後に振り返り、柔らかく微笑んだ。


「またゆっくり話そう、芙蓉」


そう言い残して、玖珂は部屋を後にした。


玖珂がいなくなると同時に、俺はその場に崩れ落ちた。

灯が心配そうに駆け寄ってくる。


「……芙蓉、あいつに何かされたのか?」

「……いや、大丈夫。灯……ありがとう」


言いながらも、玖珂の手が触れた感覚が消えない。

そして、彼の言葉――「君は私のものだ」というその言葉が、胸の奥でこだましていた。



助けてくれた灯に礼を言い、ひとしきり仕事を手伝って俺は部屋に戻っていた。

恐る恐る入った部屋には、玖珂の姿はない。

溜息を吐きながら、俺は布団に横になった。

部屋まで送ってくれた灯は「何かあったらすぐ呼べよ!俺、耳がいいからさ!」と言い残して部屋を出ていったが、胸に残るざらりとした違和感は消えない。


「……なんで俺なんだよ……」


呟いてみても答えはなく、ただ静寂だけが耳に響く。

特に何のとりえもない人間。左目がないことを加えれば、欠陥品ともいえるだろう。

ここにはそれこそ俺よりも綺麗な人が山のようにいる。そこで俺を選ぶ意味がわからないし、わかったところで、俺は受け入れられないのではないだろうか。

俺を助けてくれた人ではあるのだ、が……。

組紐を握りしめながら、知らない疲れが押し寄せてきて、いつしか瞼が重くなる。


気がつくと、夢の中にいた。

白い霧がゆらゆらと立ち込めている。足元は見えない。

ただ、どこかから聞こえる声がある。


「……君は、そこにいるのか……」


声の主はぼんやりとした人影だ。その存在が一歩ずつ近づいてくるたび、霧が薄くなっていくのがわかる。


「君を――見つけなければ」


金色の瞳がぼんやりと浮かび上がった瞬間、胸がぎゅっと締め付けられるような感覚が襲った。

懐かしい――俺はその言葉を知らないはずなのに、涙が止められない。


「助けて……助けてくれ……!」


思わず叫んだ。俺の声に反応するように、金色の瞳の主が霧の中で手を伸ばす。

その手は、確かに俺に向かっている。けれど、届きそうで届かない。


「――……が、くん!」


再び名前を呼ばれる。確かに、俺の名前だった――そう感じた。

夢の中の俺は、もう一度叫んだ。


「……助けて……!」


声と共に起き上がる。

そこは見慣れてきた部屋で、朝の光が障子の向こうから差し込んでいた。

夢から目覚めた時、俺の顔には涙が伝っていた。

組紐を強く握りしめた左手が、軽く震えているのがわかる。


「……助けて……って、俺……」


自分の声が聞き取れるほどに掠れている。

目を閉じると、金色の瞳が浮かび上がる。誰なのかもわからないその存在が、胸の奥で妙に温かくもあり、切なくもあった。


「……誰なんだ……あの人は……」


呟きながら、手の中に握りしめた組紐を見つめる。

何かが繋がりそうで、まだその先が見えないもどかしさ。

その日は朝から、妙な胸騒ぎが続いていた。

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