その日は不思議と忙しい一日だった。
夜も更け、既に馨華楼の玄関の提灯にも灯りがともっている。
俺は雑用の仕事を終え、お茶を運ぶ手伝いをしていた。
その時に、涼やかな風が吹き抜ける。
外には人影が一つ。その影が近づくにつれ、俺の胸がなぜかざわつき始める。
――金色の瞳。
その目が俺の存在を捉えた瞬間、心臓が跳ねた。
初めて会うはずなのに、この人のことを、どこかで知っている気がする。
言葉にできない、不思議な懐かしさが全身を包み込むようだった。
それから半刻もした頃。
俺は素馨さんに呼び出されて客間に向かった。
「……芙蓉です」
襖の外からそう声をかけると、入っていいよ、と素馨さんの声がして俺はそれを開ける。
一度頭を下げてから上げた視線の先には、艶やかな黒髪を持つ人物がいた。
金色の瞳――さっきの人だ。
「芙蓉。そこに座ってくれるかい?」
指された方を見て頷き、俺は中に入り襖を閉める。
その場所に座り、改めて頭を下げた。
「ご用は何でしょうか」
「ああ、そんなに畏まらなくても大丈夫だよ。さて、芙蓉……ここの生活にも慣れてきただろうし、そろそろ下働きを卒業してもらおうかと思ってね」
素馨さんの軽やかな声に、俺は驚いて顔を上げた。
「え……下働きを……卒業ですか?」
「そう。その代わり、これからは少しずつお客様に応対する準備を始めたい。とはいえ、いきなり全てを任せるわけじゃない。一人のお客様だけでいい」
そう言うと、素馨さんは俺の向かいに座る男――金色の瞳の人物に視線を向けた。
「この方が君の水揚げをしてくださることになってね。いっときはこの方だけをお相手して、色々と学ぶといいよ」
水揚げ――その言葉に息を呑んだ。
その意味するところを完全に理解しているわけではないが、この人が俺の客となるような意味合いなのだろうと思う。
「あの、でも……その、俺は何も学んでいないのですが……」
そうなのだ。俺は下働きばかりしていて、誰かの下についているわけでもない。
故に色事について詳しいことを知っているわけではなかった。
不安げに問い返した俺に、素馨さんはいつもの柔らかな微笑みを浮かべながら続けた。
「大丈夫だよ。言葉こそ水揚げとはいったものの、この龍神様はお優しい方だ。いきなり無体なことをするわけではない。まずは話すことや一緒に過ごすこと……そういうことを学ぶと良い」
「……分かりました」
素馨さんが俺のためにそう決めたのなら、きっと間違いではないのだろう。
龍神様の方を見ると、その人もにこりと微笑む。
優しそうな人ではある。だが、心の中では、この金色の瞳の人物に対する得体の知れない胸騒ぎが収まらないままだった。
※
牡丹さんに習いつつ、灯の手も借りて準備をする。
用意されたものは柔らかい色合いの無地の着物だった。
「あれ?だいぶん地味じゃね?」
灯が不思議そうに首を傾げた。
牡丹さんも同じような表情を浮かべていたが、
「素馨さんがそれを着せるように、と仰ったし……いいんでしょうねぇ。でも、芙蓉にとても似合っているわよ」
鏡に映る自分を見る。
薄群青の着物を纏う自分は、後ろにいる牡丹さんに比べると、どうしても劣っているようにも感じた。
俺なんかでいいのかな、という思いはあるが、素馨さんからの話だ。
そこは信じて、牡丹さんと灯に礼を言った後、言付かった部屋へと向かう。
襖の前に膝を付いて、
「……失礼いたします」
そう声をかけると、どうぞ、と返事があった。
心臓が今までにないほど、早鐘を打っていた。
一つ息を吐いてから、俺は覚悟を決めてその扉を開けた。
その部屋は普段の馨華楼のどの空間とも違った。
無駄な装飾はなく、落ち着いた雰囲気が漂っている。静けさと柔らかな明かりが、まるで外界と切り離されたような感覚を与えてくれる。
「さっきぶりだね……芙蓉」
龍神様は座布団に座り、俺の方を見ている。
その向かいには、座布団が一つ用意されていた。
恐らくは俺の席だろうとは思うのだが……何せ初めてのことで俺は戸惑うばかりだ。
ひとまず、部屋の中に入って襖を丁寧に閉じてから、その場から動けなかった。
「緊張している?」
龍神様の声は低くて静かだったが、その声が耳に届くたびに、不思議と胸がざわついた。
「……正直、少し」
素直に答えた俺を、龍神様は優しく微笑んで見つめる。
こちらへと、自分の前にある座布団を指した。
そこで漸く俺は動くことが出来て、その場所へと座る。
「怖がらなくていいよ。今日はただ、君のそばにいさせてもらいたいだけだから」
そう言うと、龍神様はそっと手を差し出した。
「……手を、貸してくれる?」
差し出されたその手に、俺は一瞬戸惑ったが、拒む理由も見つからず、ゆっくりと自分の手を乗せた。
すると、その手は思った以上に温かく、気づけば俺の手を優しく包み込んでいた。
「……温かいね……」
龍神様の目が、俺の顔をじっと見つめる。
その視線には言葉にできない懐かしさと愛情が込められているように感じられた。
「どうして……そんな風に俺を……」
言葉の途中で、龍神様がそっと俺の肩を抱き寄せた。
その瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚が走る。
「……どうしてだろうね。君に一目惚れしてしまったからかな」
その言葉が耳元で囁かれる。穏やかな響きだった。
そうして俺の頭をそっと撫でた。
その手の感触が、優しさと切なさを伴って心に染み込んでいく。
「……君を守りたい」
龍神様の手が、俺の頬を軽く撫でる。
そして、その唇が俺の額にそっと触れた。
――軽い、けれど深い口づけ。
その一瞬の出来事に、胸の奥から何かが溢れ出しそうになる。
「どうして……そんな、はじめて会ったのに……」
俺の声は震えていた。
龍神様は微笑みながら、俺を抱き寄せたまま言った。
「それは……君を見つけたからだよ」
やっと君を見つけた。
――龍神様の呟きは静かだったが、その一言にどれだけの感情が込められているのかを感じた。俺にはその意味を知る術はない。ただ、その声がどこか懐かしくて……胸の奥をざわつかせた。
柔らかい言葉に、俺は何も言い返せなかった。
龍神様の腕の中にいると、どうしてこんなにも安心するのだろう。柔らかな呼吸の音が耳元で響き、そのたびに、張り詰めた心が解けていく。まぶたの裏に浮かぶ金色の光。それが夢なのか現実なのか、俺にはもう分からなかった。