その夜、俺は部屋の窓際で月を眺めていた。
涼やかな風が頬を撫で、月明かりが池の表面を照らしている。
日中の忙しさを忘れ、こうして一人で過ごす時間が好きだった。
俺は手にした組紐をじっと見つめた。夢の中で見た金色の瞳――その人物が組紐に関係しているような気がしてならない。けれど、それ以上の記憶は何も浮かんでこない。
「……俺は、どうすれば……」
小さく呟いたその時、不意に背後から声が聞こえた。
「こんな夜に、一人で物思いかい?」
振り向くと、そこには玖珂が立っていた。
月明かりに照らされたその姿はどこか儚げで美しく、妖しい雰囲気を纏っている。
「……玖珂様」
俺は立ち上がり、戸惑いながら頭を下げる。玖珂は微笑みながら部屋に入ってきて、扉を静かに閉じた。
「休んでいたところを邪魔してしまったかな?」
その声は穏やかで、いつも通りの玖珂だった。けれど、その背後にある得体の知れない気配に、なぜか胸にじんわりと重さを産む。
「いえ……どうかなさいましたか?」
そう尋ねると、玖珂は何も答えず、ゆっくりと俺の近くまで歩いてきた。
そして俺の目をじっと見つめる。
「芙蓉……君の顔を見ると、なんだか心が落ち着くよ」
玖珂が微笑む。その顔は美しいけれど、どこか冷たい影を帯びているように見えた。
「ここでの生活には慣れたかい?」
「ええ……皆さんのおかげで……」
俺が答えると、玖珂は静かに頷き、そのまま手を伸ばして俺の頬に触れた。
「本当に綺麗だね、芙蓉。君は自分で気づいていないのだろうけど……その美しさは、人も妖も惹きつける力がある」
「玖珂様……?」
その手が頬から滑り、首筋を撫でる。その感触に、ぞくりと背筋が震えた。
「過去なんて忘れてしまえばいい。君はここで、私のそばで生きていけばいいんだよ」
甘い言葉に耳が熱くなる。
けれど、その言葉の中に潜む支配的な響きが、俺を戸惑わせる。
「……俺は、過去を……」
俺が何かを言いかけた瞬間、玖珂が一歩踏み出し、俺の身体をそっと抱き寄せた。その距離の近さに、息を呑む。
「何も考えなくていい――すべてを忘れてしまえばいいんだ」
囁きながら、玖珂の手が俺の背をまた滑る。その手の動きは滑らかで、まるで絡め取るような優しさを持っていた。
「玖珂様、やめてください……!」
俺は咄嗟にその手を振り払おうとする。けれど玖珂は微動だにせず、優しく微笑みながら俺をさらに引き寄せる。
「怖がらなくてもいい。私のものになれば大切にする――それが、君にとって一番幸せなことだよ」
玖珂の顔が近づいてくる。俺は必死で腕を突っ張り、玖珂との距離を取ろうとするが、その腕の力は強い。
「玖珂様、お願いです、やめてください……!」
声を張り上げた俺を見て、玖珂はふと動きを止めた。その目が俺を見つめる。
「やめて、か……」
玖珂が微かに笑う。その笑みにはどこか余裕が感じられた。
「分かったよ。今日はここまでにしてあげる。君を無理に追い詰めるつもりはないからね」
そう言いながら、玖珂は俺から手を離した。その手が去った瞬間、身体中の力が抜けたように感じる。
「ただ――君が私のものになる日は、きっと来る。そう思わないかい?」
俺は答えられない。ただ玖珂の言葉に押し潰されそうになりながら、震える手で自分の胸元を握りしめた。
玖珂は満足そうに微笑み、俺の耳元で囁いた。
「忘れないで。君の居場所はここだ――私のそばだよ」
その言葉を残して、玖珂は部屋を出ていった。
俺はその場に崩れ落ち、荒い息を吐きながら組紐を握りしめる。
玖珂が去った後、部屋には甘く濃厚な香りが残っていた。その香りは、鼻腔をくすぐりながらも、まるで頭の奥深くにまで染み渡っていくようだった。
「……なんだ、この香り……」
胸の奥がじわりと重くなり、心の中に小さな波紋が広がるような感覚。全てを投げ出して彼の言葉に縋りつきたくなるような誘惑が、静かに、しかし確実に俺の心を蝕んでいく。
握りしめた組紐に意識を向けることで、その感覚を振り払おうとしたが、ふと玖珂の囁きが頭をよぎる。
『忘れてしまえばいいんだ、過去なんて』
その声が、香りと共に体の奥底で鳴り響くようだった。
※
翌日――。
その日は龍神様が馨華楼を訪れる日だった。
俺はこの前と同じ部屋で支度を終えて龍神様を待っていた。
襖が開き、金色の瞳が俺を捉える。
「……芙蓉」
低く優しい声が耳に届いた瞬間、不思議な安心感が胸に広がった。
「お待ちしておりました」
頭を下げると、龍神様がすぐそばに来て腰を下ろす。
「少し疲れているように見えるね。何かあったのかい?」
その言葉に、心がビクリとする。玖珂とのことが一瞬頭をよぎる。
「……いえ、大丈夫です」
俯きがちにそう答えると、龍神様が手を伸ばして俺の顎に触れた。
「顔を見せて?」
強い口調ではない。けれど、その言葉には逆らえない力があった。
俺はゆっくりと顔を上げ、龍神様と目を合わせる。
――その瞳が、一瞬鋭い光を放った。
「酷くきつい甘い香りがする……」
龍神様の声が低く、そしてどこか怒りを含んでいるように聞こえた。
「え……?」
そんな声に、ふと自分の体から、微かにあの甘ったるい香りが漂っているのに気づいて、思わず息を呑んだ。
「……っ!」
玖珂の香りだ――昨夜、彼が近づいてきたときの。
俺が驚いている間に、龍神様が俺の肩を掴み、ぐいっと引き寄せた。
「誰かが君に近づいたのか……!」
その声は低く抑えられていたが、どこか焦燥が混じっている。
「龍神様、何を――」
そう言う間もなく、龍神様が俺を強く抱きしめた。そのまま畳の上に押し倒され、金色の瞳が真剣な光を宿して俺を見下ろす。
「誰にも触れさせない。僕以外には……」
その迫力に、俺は身を竦める。けれど、次の瞬間――龍神様の目が微かに揺れた。
「……ごめん、怖がらせたね」
龍神様は俺から手を離し、再び優しく抱きしめ直した。その腕は温かく、強い。
「何があっても、君を大事にするよ」
その言葉に、不思議と心が安らいだ。
昨夜の出来事は恐ろしく、今は安心をして……両極な気持ち。
俺は龍神様の腕の中で、小さく頷くことしかできなかった。