翌日、いつも通りの朝を迎えたはずなのに、心の中には重たい何かが居座っていた。
昨夜の玖珂の言葉と触れられた感触が、まだ頭から離れない。
彼の甘い香りがふとした瞬間に鼻をくすぐり、そのたびに自分が汚されてしまったような感覚が蘇る。
あれ以上の接触なんかありはしないのにだ。
「……何やってるんだ、俺……」
思わず独り言をこぼしながら、掃除用の雑巾を絞る。
こんなことに気を取られている暇はない――そう言い聞かせても、心は妙に落ち着かなかった。
「芙蓉、どうしたの?珍しくぼんやりして」
振り向くと、灯が猫耳をぴこぴこと動かしながら俺を見ている。
「いや……ちょっと、疲れただけだよ」
「へえ?そうは見えないけどねぇ。疲れてるっていうか、何か考え事してる顔」
灯の目が鋭く俺を見抜いてくる。俺はごまかすように笑った。
「……考え事しても仕方ないことだからさ」
「仕方ないこと?」
灯は膝を抱えて俺の隣に腰を下ろす。その好奇心に満ちた目がじっと俺を見つめてくると、少しだけ言葉を漏らしたくなる。
「なんていうか……最近、誰かに近づかれると妙に神経が過敏になってる気がするんだ」
「へぇ~、それって誰かさんの香りのせいだったり?」
灯が茶化すように言って、俺はその顔をまじまじと見る。
「なっ、何で……!」
「んー……だって匂い、めっちゃ残ってるかんなぁ」
灯の鼻がひくひくと動く。まさかとは思ったけど、猫又の嗅覚を甘く見ていた。
「玖珂様、だろ?あの人、独特の香り持ってるからさぁ。強い妖ほど、なんか分かりやすいんだよな」
「そうなのか……」
頷きつつ、心の奥がさらにざらつく。
玖珂様の香りは、俺の体に染み付いているのだろうか。自分では感じていないつもりでも、それが周りに伝わっているのかと思うと、嫌悪感が湧いてきていた。
あの人は俺を助けてくれたのに、何故だろうか……。
感謝はしている。しているのだが……。それだけでは片づけられない思いが強かった。
※
その夜、俺は龍神様と会うため、前回と同じ部屋で待っていた。
用意は匂いを消したいという思いが強くて念入りにしてしまった節がある。
襖が静かに開き、金色の瞳が俺を捉える。
「……芙蓉」
低く穏やかな声が耳に届いた瞬間、何かが溶けていくような感覚が広がる。
俺は思わず頭を下げた。
「お待ちしておりました」
龍神様はゆっくりと部屋に入り、襖を閉めると、俺のそばに座った。
「調子はどうだい?」
その言葉に一瞬だけ息が詰まる。
自分の状態がすべて見透かされているような気がしてならなかった。
「ええ……大丈夫です」
そう答えながらも、視線を合わせることができなかった。
昨夜の玖珂のことを思い出してしまう自分が、どうしようもなく嫌だった。
「芙蓉」
名前を呼ばれるたびに、不思議と胸の中が温かくなる。
龍神様の声には、いつも俺を包み込むような優しさがあるからだ。
「顔を上げて」
促されるままに顔を上げた俺に、龍神様の目がふと細まる。
「……甘い香りがまだ残っているね」
その言葉に、思わず息が詰まる。俺の体から漂う微かな甘い香り――それは、昨夜玖珂が俺に近づいたときにまとわりついたものだ。
その言葉に、心がギクリとする。
やっぱり、分かってしまうんだ――俺の中に、玖珂が残したものがまだあることを。
「……す、すみません……」
思わず謝罪の言葉が口をついて出る。
けれど龍神様は小さく首を振り、俺を優しく引き寄せた。
「君のせいじゃない。けれど――その香りを消したいと思うのなら、僕に任せてくれないか?」
「え……?」
龍神様の金色の瞳が真剣な光を帯びていた。
「君が望むのなら、僕が君を浄める」
その言葉に、胸がじんと熱くなる。
龍神様の腕の中に包まれると、玖珂様の香りの残滓がまるで剥がされるような感覚がした。
「……怖くないかい?」
耳元で囁かれたその声は、不思議なくらい穏やかだった。
俺はしばらく考えたが――最後には、小さく首を横に振った。
「……怖くないです」
その答えに、龍神様が微かに微笑む。
そして、俺の頬にそっと唇を寄せた。
その動きは穏やかで、決して強引なものではない。
玖珂の手が触れたときのような不快感も、嫌悪感も一切ない。
ただ、身体の奥から湧き上がる安心感が胸を満たしていく。
「……これでいい」
龍神様が再び俺を抱きしめ直す。
その腕の中にいると、玖珂の甘い香りはすっかり消え去り、龍神様の静かな温もりだけが残った。
「君が誰のものでもなく、君自身であることを――僕は願っているよ」
その言葉に、また胸が締め付けられる。
だからだろうか、
「あ、あの……」
「どうしたの?」
俺は、一度下を向く。こんなこと言っていいのかわからない。
けれど、この龍神様なら許してくれるかもしれない。
顔を上げて、龍神様を見上げる。
「……もう少し、触れて、ください」
最後の方は声が掠れてしまっていた。
自分からこんなことを頼むなんて、はしたないのかもしれない。
だけど、今だけは――この人に触れてほしかった。
自分を包むその温もりに、もっと浸かりたかった。
龍神様は俺を少し見つめた後に、ふわりと微笑む。
そして俺の口端に口づけた。
「君が、許してくれるならいくらでも」
そう言いながら、唇の上を龍神様の唇が啄む。
甘く痺れるような感覚が広がっていき、俺が口を少し開くと、ぴったりと二人の唇が重なった。
柔らかく、温かい、その感触に懐かしさを見出す。
俺はただその腕に身を預けた。
※
夜が更け、龍神様が部屋を去った後も、俺はしばらくその場に座り込んでいた。
組紐を手に取りながら、心の中で繰り返す。
――俺は、あの人を信じたい……。
満月が夜空に静かに輝いている。その光が、龍神様の金色の瞳とどこか重なって見えた。俺を導いてくれるのは、この月明かりのような存在――そんな気がしてならなかった。
「……龍神様……」
呟いた声は、月明かりに溶けて消えていった。