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翌朝、目覚めたとき、俺の体はまだ昨夜の温もりを覚えていた。

龍神様の手の感触、唇の熱、抱きしめられたときの温もり――すべてが鮮明に残っていて、ふと頬が熱を帯びる。


「……何考えてんだ、俺……」


ぼんやりと組紐を指でなぞる。

昨夜、俺は自分から「もっと触れてください」なんて頼んでしまった。

思い返すと恥ずかしくなるが、それでも後悔はしていない。

ただ――昨夜の心地よさとは裏腹に、胸の奥には小さな棘のような違和感も残っていた。

この感情は何だろう?

俺は軽く首を振り、気持ちを切り替えるように布団を畳む。

今は仕事に集中しよう。そう思いつつ、広間に降りると牡丹さんと瑠璃さんが居た。


「おはようございます」


そう声をかけると、それぞれに挨拶を返してくれる。

瑠璃さんは牡丹さんの隣で、扇を軽く畳みながら微笑んだ。


「最近、少し様子が変わったわね」

「え……?」


俺が戸惑っていると、牡丹さんがくすっと笑う。


「お客に惚れた顔してるわよ」


惚れ……?!

二人の声に思わず頭に浮かぶのは龍神様だ。

その顔を消すべく、俺は咄嗟に頭を振った。


「ち、違います!」


否定をするが、二人は意味ありげに目を細める。


「ふふ、本当にそうかしら?確かに龍神様は特別なお方。少し拝見したけど素敵な方よね」


牡丹さんがそう言うと、瑠璃さんが頷いて続ける。


「そうね。なかなかいないわね。あんな方。だけれど――深入りすると辛くなるわよ?」


瑠璃さんの声は牽制や嫌味などではなく、ただただ俺を心配しているような響きだ。


「え……」


俺が少し呆然として声を漏らすと、瑠璃さんは笑みを浮かべたままだが眉を下げて一つ溜息を吐いた。


「お客に恋をしても、得られるものは少ないわ。龍神様のような方は、最後には結局、自分と同じ世界の人を選ぶのよ。私たちは、あくまで夢を見させるための存在。それ以上を望むと、きっと苦しくなるわ」

「……俺は、そんなつもりじゃ」


牡丹さんも同じ意見なのだろう。やはり同じように困ったような表情で頷く。

恋。

その言葉を繰り返してみる。まさか。龍神様とは数度しか会っていない。

けれど……俺は、あの人に触れられて――嫌じゃなかった。むしろ……安心した。

そんな思いが胸の奥からわき上がるが、それが「好き」なのかどうか、俺には分からない。

俺が言葉に詰まってしまうと、俺の肩をまるで励ますかのように軽く、牡丹さんは叩いた。


「ならいいの。でも、もし本当に特別な想いがあるなら――覚悟しておいたほうがいいわ。私たちが望んでも届かないものがあるって、嫌というほど思い知らされるのが、ここだから……悲しいことだけれど、仕方ないことよ」


牡丹さんの言葉が、胸に静かに響いた。



お客を取ったと言っても、俺はまだまだ牡丹さんやその他の人たちとは比べ物にならないし、時間も余っている。

そういうこともあって雑用は出来る限り手伝うことにしていた。

昼過ぎ、洗濯物を運んでいるところで、俺は素馨さんに呼ばれた。

楼主部屋に通されると、素馨さんは床に座りながら、俺を見上げた。


「芙蓉、少し話をしようか」

「あ……はい」


俺が座ると、素馨さんはゆっくりと扇を広げ、静かに言った。


「君の部屋をね、灯と続き間にしようかと思うんだ」

「続き間……?」


思わず反復する。馨華楼では、基本的に個室が与えられる。

自分の空間があることは、この場所においてはとても重要だ。

それなのに――。


「……でも、俺はもう子供じゃないし……それに、灯に迷惑じゃ……」


そう口にしたが、素馨さんの表情を見て、すぐに察する。


「その灯からの提案だよ」


言い切られ、俺は何も言えなくなった。


「灯なら君とも仲がいいし、信頼できる子だからね。それに……何より、君の身を守るためだよ」

「……俺の身を?」

「……玖珂のことを、もっと早く報告するべきだったね……遠慮したんだろう?」


その名前を聞いた瞬間、心臓がぎゅっと縮こまるような感覚がした。


「……すみません」

「謝ることじゃないよ。悪いのはあちらだ。でも、君の立場を考えるとね――誰が敵か味方か、ちゃんと見極めなくちゃいけない」


素馨さんの言葉には、いつもの柔らかな笑みがあった。

けれど、その奥には鋭い光が宿っている。

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