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俺は、いつものように龍神様と会うための部屋へと足を運んでいた。

ただ、今日は少し違う。龍神様本人ではなく、使いの者が来ると素馨さんから聞いていた。

使いの者、か……どんな人が来るのだろうか……?

少しだけ緊張しながら襖の前に立ち、軽く息を整えてから声をかける。


「……芙蓉です」

「どうぞ」


落ち着いた声が返ってきた。

襖を静かに開けると、そこには当たり前だが龍神様とは違う男性が座っている。

髪は龍神様と一緒で黒い。けれどその瞳は湖面のような青色だった。

柔和な顔つきが神秘的な雰囲気を醸し出している。

そして、細められた切れ長の目――その双眸が俺を映した瞬間、胸が僅かにざわつく。

初めて会うはずなのに、何だろう、この感覚は。

何かが、ひどく引っかかる――


「はじめまして」


俺は姿勢を正し、丁寧に頭を下げた。

すると、その人は、少しだけ間を置いてから微笑んだ。


「……ああ、そうか、そうだね」


何か納得したような、寂しそうな、そんな表情を浮かべる。


「はじめまして、芙蓉くん。私はみぎわ。……つる、いや、龍神の使いで来た者だよ」


その声音は柔らかかったけれど、どうにも違和感が拭えない。

俺は無意識のうちに首を傾げていた。


「……?」


何か知っているような口ぶりだった。

けれど、俺の記憶にはこの人の顔はない。


「……俺のこと、ご存じなのですか?」


そう尋ねると、汀様は小さく微笑んだ。


「どうだろうか。それよりも、目は……痛くないかい?」

「え?」


唐突な言葉に、思わず息を呑む。

俺の左目のこと――馨華楼では誰も特に触れてこなかった。

見苦しさを髪で隠しているせいか、わざわざ話題にされることもない。


「あ、はい。別に痛くは……」


言いかけて、ふと気づく。


――俺、目のこと、話してない。……龍神様か……?


そう尋ねようとした瞬間、汀様は軽く微笑み、扇をひらりと仰いだ。


「そう、なら良かった」


さらりと流される。

いや、目は髪で隠している分、何か気付いたのかもしれない。けど……。

どこか腑に落ちないものを感じながらも、俺はひとまず話を進めることにした。

汀様は俺を観察するように見つめながら、ふと扇を広げ、軽く笑った。


「さて、私が来た理由なんだけどね」

「……はい」

「君にご執心な龍神から君の様子を見てきてくれと頼まれてねぇ」

「あ、はい」

「しかし君と二人きりで話していたら、龍神様が嫉妬で暴れるかもしれないからね。せっかくだし、もう少し賑やかにしようかと思ってね」

「……はい?」


思わず聞き返す。


「ん?君、まだ気づいてないの?」

「何の話ですか」

「ふふ、何でも」


汀様は意味ありげに微笑んだ後、軽く扇を打ち鳴らした。

その瞬間、襖が開き――


「芙蓉!飯があると聞いて!」


灯が飛び込んできた。


「いや、飯とは言ってないけれどね。……まあ食事も出るだろうけど」


思わず汀様がツッコむが、灯は気にした様子もなく汀様の横に座った。


「まぁまぁ、楽しそうやなぁ」


今度はひらひらと舞う白い布のようなものが入ってきた。

一反木綿の木綿子ゆうこさんだ。

彼女は馨華楼でも上位の遊女の一人……いや、一枚というのだろうか?

普段は物腰が柔らかく、優雅な雰囲気を纏っているが――今日は随分と楽しげだ。

ちなみに一反木綿だが、木綿子さんは正絹しょうけんである。それが自慢らしい。


「え、まって……何でこんな急に集まる流れに?」

「汀様が『楽しいほうがいい』って言うから!」


灯がニヤニヤしながら答えた。


「えぇ、いやでも――」

「まぁまぁ、いいじゃないの。ちょっとした宴よ?」


木綿子さんがにこりと微笑み、ふわりとした布の体を優雅になびかせる。


「君もこういうの、たまにはいいでしょ?あの龍神ばかりでなくともね」


汀様が意味ありげな笑みを浮かべながら、俺に問いかけた。

……どう考えても、俺の意思とは無関係に進んでるんだけど……。

けれど、どこか居心地が悪くないのも確かだった。

こうして、思いがけず小さな宴が始まる。

灯が騒ぎ、木綿子さんがそれをたしなめながらも楽しそうに酒を飲む。

あの酒、どこに消えているのかどうにも謎が深い。

汀様は淡々とした態度を崩さず、しかし時折微笑んで盃を傾けている。


「……なんか、いつもと雰囲気が違いますね」


俺はぽつりと呟いた。


「まぁ、賑やかなのもいいものだよ」


汀様がそう言いながら盃を差し出してくる。


「君も一杯どう?」

「え、俺、あまり強くは……」

「大丈夫、大丈夫。これは薄めたものだから」


汀様がそう言うと、灯が横から茶々を入れる。


「汀様ってば、ずるいなぁ。芙蓉には優しい顔するんだ?」

「私は誰にでも優しいよ」


汀様はそう言いながら、空いている手で灯の頭を撫でた。

灯の猫耳がぴくぴくと動き、にゃあ、と一声鳴く。

――その仕草に、ふと、龍神様とは違った柔らかな雰囲気を感じた。

……この人、何者なんだろう……。

初めて会ったはずなのに、どこか懐かしいような、親しみのような感覚。

けれど、思い出せない。

そんなことを考えながら、俺は汀様が差し出した盃を静かに受け取った。



宴は思いのほか長引いた。

最後には灯が酒にやられてふらふらになり、木綿子さんが介抱しながら部屋を後にする。

汀様は最後まで静かに酒を飲み、俺に向かって微笑んだ。


「楽しかったねぇ。あの一反木綿の遊女くん、興味深いなぁ……飲食物はどこに消えたんだと思う?」

「……俺もそれ、思いました。あんなにひらひらと薄いのに」

「妖怪というのも趣深いものだね。どういう客が来るのかも興味があるなぁ……」


俺も思わず頷いて微笑む。

不思議な夜だったけれど、悪くなかった。

そんな俺の様子を見て、汀様はふっと目を細めた。


「また、会いに来るよ」


それは何気ない言葉のはずだったのに――何故か、胸の奥がちくりと疼いた。

しかし汀様は、


「勿論、あの嫉妬深い龍神もつれてね」


そう付け加えた。

俺は瞬きをした後に、小さく笑った。

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