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夜が明ける頃、俺はどこかにいた。

白く霞む世界。すべてが柔らかな光に包まれ、どこまでも静かだった。

風もなく、音もない。けれど、不思議と寂しさは感じなかった。


目の前に、誰かがいる。


その姿はぼんやりとしていて、輪郭すら曖昧なのに、なぜか心が落ち着く。

優しく髪を撫でられる感触がして、ふわりとした布の温もりが俺を包み込む。


「……おかえり」


どこかで聞いたことのある声。

そして俺の周りには猫耳の小さな子が楽し気にまとわりついていた。


「……様!ずっと一緒!約束したもの!」


懐かしい、はずなのに、思い出せない。

夢の中の俺は、その手を掴もうとした。

……誰――。

言葉を紡ぐよりも早く、意識が浮上する。

肩を揺さぶられる感覚に、ゆっくりと目を開ける。


「おーい、起きろってば」


目の前にあったのは、ぴくりと動く猫耳だった。


「うん……?」


ぼんやりと俺がそちらを見ると、猫耳の子が呆れたように笑う。

少し大きくなったが、相変わらずの愛らしい顔だ。


「……珍しく寝ぼけてんなぁ。ほら、起きろって。朝だぞ」

「……ああ、うん……」


無意識のうちに灯の頭に手を伸ばし、胸元まで抱き寄せると、ぽんぽんと撫でた。


「……大丈夫。ずっと一緒にいるし……」

「……んん?」


灯の耳がぴくりと動いた。


「ずっとって……お前、そんなに俺のこと好きだったのか?」

「……えっ」


ようやく俺ははっきりと意識が覚醒した。

自分の行動に気付き、慌てて手を引っ込める。


「あ、灯!わるい! つい……」

「ついってなんだよ。お前、たまに変なことするよな」


灯はくすくすと笑いながら、喉を鳴らす。

――猫又らしく、心地よさそうに喉をゴロゴロと鳴らしている。


「……何の夢を見てたんだ?」

「……わからない」


正直に答える。


「でも……神域……だったような気がする」

「神域?」


灯が首を傾げる。


「そこに……誰かがいて……髪を撫でられたような……」

「ふぅん?」


灯は興味深そうに目を細める。


「……それってさぁ」

「ん?」

「あの龍神様恋しさじゃね?」

「ぶっ」


俺は灯の言葉に盛大にむせた。


「な、何を言って――」

「いやいや、そうとしか思えねぇだろ。恋に恋してるってカンジ」


灯は笑いながら肩を叩く。


「ま、いいけどな。夢なんて、そんなもんだろうし。あーまた汀様来ないかな。ただ飯ただ酒最高だったにゃーん」


――本当に、そうだろうか?

俺は夢の感触を思い出しながら、小さく首を振った。


「……顔洗ってくるよ」

「おう、行ってら」


俺が布団を抜け出し、立ち上がっても灯はまだ笑っていた。



顔を洗って部屋に戻るために廊下を歩いていると、どこか不穏な空気が流れていることに気付いた。

肌がひやりと粟立つような、嫌な感覚。

次の瞬間、その理由がわかった。


「やぁ、芙蓉……調子はどうだい?」


玖珂がいた。

普段と変わらない優雅な笑みを浮かべているのに、どこか機嫌が悪そうだ。

目が合った瞬間、足がすくんだ。


「……玖珂様」

「最近、逃げるのが上手くなったね?」


玖珂はにこやかに笑いながら、一歩、また一歩と近づいてくる。


「――でも、もう逃がさないよ」


その言葉に、背筋が凍りつく。

間合いを詰められ、思わず後退る。


「……っ!」


けれど、そうした中で廊下の先に人影が立ち塞がった。


「……玖珂、やめておいた方がいいよ」


穏やかな声で、玖珂を牽制するのは素馨さんだった。

扇をゆるく開いたまま、玖珂を静かに見つめている。


「おや、楼主殿。これはご機嫌よう」

「あまりご機嫌ではないだろう?お互いにね」

「……ふふ」


玖珂は笑った。

今度は素馨さんが玖珂に一歩一歩近づき、その前まで来ると、扇を閉じてそれで玖珂を指す。


「さすがに、もう彼に手を出すのはまずいんじゃないのかい?」

「……何がまずいのかな?ここは君のものでもあるが、私のものでもある。そうだろう?」

「道理ではそうだね。ただね……私がこう言うからには、もう気付けるはずだよ」


素馨さんの言葉に、玖珂の笑みが僅かに崩れる。


「……まさか、もう……?」


玖珂が小さく呟く。


「そうだよ。気づくのが遅いね。少し前からだ」


素馨さんは涼しい顔で扇を自分の元に戻すと、また開く。

玖珂の表情が僅かに険しくなる。


「冗談だろう?どうして私に報告しない?」

「報告したら芙蓉を連れ出すだろう?それを阻止したまでだよ。それで見つかったときはどうなると思う?私の優しさと思ってほしいね」


素馨さんの静かな言葉に、玖珂は溜息をついた。


「上手く隠せたと思ったのだけどなぁ……本当に欲しかったんだけどね」


ぽつりと、玖珂は呟いた。

玖珂は俺に視線を向け、軽く肩を叩く。


「ああ、惜しいなぁ……」


玖珂の指先が俺の肩を離れる。その一瞬だけ、名残惜しそうな目をしていた気がする。


「けれど、あれに睨まれるのは厄介だ。黄龍まで敵に回すのはね……」


その言葉に、俺は小さく眉をひそめた。

……黄龍?龍神様とはまた違う……?

どこかで聞いたことのあるような響きだ。でも、それが何を意味するのか、俺の中には何の手がかりもない。ただ、玖珂の呟き方からして、龍神様と何か関係があるのだろうか。

考えている間に、玖珂は俺から離れ、肩をすくめて踵を返す。


「まぁ……仕方ないね」


そう言い残して、廊下の向こうへと消えていった。

玖珂の姿が見えなくなったあと、素馨さんが小さく息を吐く。


「はぁ、やれやれ……彼は本当にもう……」


素馨さんの声には呆れが混じっていたが、それでもどこか冷静だった。

俺はまだ事態を完全には理解できず、ぼんやりと玖珂が消えた方向を見つめていた。


「……あの、素馨さん?」


俺が問いかけると、素馨さんはふっと微笑む。


「芙蓉、これからはもっと気をつけないと駄目だよ。玖珂はまだ諦めたわけじゃ……いや、流石に釘はさせたかな?いっときは大丈夫だとは思うよ。あとは、まあ……君次第だけれども」

「……俺次第……ですか?」


ぽつりと口に出した言葉に、素馨さんが「そうだね」と静かに頷く。

俺は思わず自分の拳を握りしめた。

……俺に、できることなんてあるのか?

ただ流されるままに生きて、記憶すらはっきりしない。龍神様や素馨さん、みんなが俺を守ってくれている。でも、それに甘えてばかりでいいのだろうか。

俺が何かしなければならないのだろうとは思う。

でも、俺は……。


「……芙蓉?」


素馨さんが俺の顔を覗き込む。


「……いえ、何でも」


結局、それ以上何も言えなかった。

そんな俺を見て、素馨さんは少しだけ優しく微笑んだ。


「まぁ、焦らなくてもいいさ。今は、君が自分のことをちゃんと大事にすることが一番だからね」


扇をゆるく開きながら、素馨さんはそう言った。

その言葉が、どこか胸に引っかかったまま、俺はただ黙って頷くしかなかった。

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