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昼下がり、素馨さんから呼び出しを受けた。


「灯と一緒に少しお使いに行ってくれるかい?」

「お使い……ですか?」

「そう。外の様子を見るのも悪くないだろう? それに、君はまだ馨華楼の外での経験が少ない」


確かに、ここに来てから外に出たことはなかった。

あの日、玖珂に拾われて以来、馨華楼が俺の世界の全てになっていたのだ。


「わかりました。行ってきます」

「良い返事だ。灯は詳しいから色々と教えてもらうと良い。でも君は色んなものに好かれやすいから気を付けるんだよ」


素馨さんはそう言いながら、ゆるりと扇を開きつつ微笑んだ。

俺と灯は準備をして馨華楼を出る。

外の世界は賑わっていた。店にも色々な御仁が来るが、街はもっと凄い。

人もいれば獣もいて、妖もあたりまえのように行きかっていた。

その道中、ふとした騒ぎに足を止める。

何やら道の端で人が集まっていた。


「何かあったのか?」


灯が耳をぴくりと動かしながら人混みに近づく。

俺もその後を追うと、人々の間に横たわる女性の姿があった。


――妊婦だ。


苦しげに腹を押さえ、汗を滲ませながら呻いている。


「誰か、産婆を呼べ!」

「急に産気づいたみたいだ!」


周囲の声が飛び交うが、産婆が来るまでは恐らく時間がかかるだろう。

俺は無意識に妊婦のそばへと駆け寄って、膝をついていた。


「……大丈夫ですか?」


女性は顔を歪めながらも、俺の声にうっすらと目を開けた。


「……痛い……苦しい……」

「深く呼吸してください。ゆっくり、息を……」


そう言いながら、俺はそっと彼女の背を支えた。

そして、腹を摩る――自然に手が出ていた。


「大丈夫、大丈夫。お腹が重くて苦しいよな。ちょっとでも楽になるように……」


言葉も自然と口をついて出る。


「おいおい、お前……何か詳しくないか?」


灯が驚いたように俺を見る。


「え……」


言われて、ようやく気づいた。

俺は何を言っているんだ? まるで、経験があるみたいに――。


「お前、そんな体験ないだろ?まさか嫁がいたとか?」


灯は冗談めかして笑う。


「……まさか。そんなことはないと思う、けど……」


俺もつられて笑うが、胸の奥に何か引っかかる感覚が残る。

自分の言葉に、妙な違和感があった。

暫くして産婆が俺たちの元へと走り寄ってくる。

妊婦は苦しみながらも、俺たちへと向かってうっすらと微笑んだ。

その後、俺たちは素馨さんのお使いを無事果たすことが出来た。

帰り際に、先ほど妊婦が倒れていた場所をまた通る。そこはすでに鎮まっていて先ほどのような騒ぎはない。

けれど俺の違和感は消えないままだった。



「……何か、考え事をしているようだね」


部屋の窓際、俺と龍神様は静かに月を眺めていた。

隣に座る龍神様は、いつものように穏やかな声で問いかける。


「……昼間、外に出たんです。妊婦を助けました」

「妊婦?」

「そうです。俺……妙に馴染んでしまったというか……」


そう言いかけて、自分でも言葉に詰まる。


「俺、経験なんかないはずなのに……当たり前のように言葉が出てきたんです」


龍神様は黙って聞いていた。


「なんだか、わからないけれど……どこかで知っている気がするんです。……そんなはずはないのに」


静かな夜の風が、二人の間を吹き抜ける。

龍神様は何も言わず、ただ俺をそっと抱き寄せた。


「……君の記憶は、まだ戻りきっていないんだろう?」

「……そうですね」

「でも、君の心は覚えているんだろうね……何かを」


龍神様の言葉が、深く響く。

俺は小さく、そうでしょうか、と呟いてそっと瞳を閉じ、その温もりに身を委ねた。



ふと、心地よい静けさに包まれる。


――ああ、これは夢の中だ……。


俺は、どこか懐かしい場所にいた。


静かな空間。月の光が柔らかく差し込む部屋。

俺はゆっくりと、自分の腹に手を当てていた。


「……元気に育ってくれよ」


そう言いながら、そっと撫でる。


――ぽこっ。

ふいに、お腹の奥から、やわらかい衝撃が走る。


「……?」


ぽこっ、ぽこっ。

小さな、小さな命の鼓動。


「……お前……?」


言葉がこぼれる。だが、名前は浮かばない。

違和感に、もう一度ゆっくりと腹を撫でる。

胸の奥が温かくなる。

愛おしい。大事なものが、ここにある。


俺は、確かに――

……突然、闇が広がる。

温かい腹部に、冷たい手が伸びる。


「……!」


何かが、俺の中から引き剥がされる感覚。


痛み、恐怖――深い、苦しみが俺を襲った。


「――っ!」


そこで現実に引き戻され、俺は飛び起きる。

息が荒い。汗が額を伝う。

なんだ、今の……。


「芙蓉……?」


隣で眠っていたであろう龍神様が驚いたように俺を見ていた。

そうだ。今日はお泊りになると言って一緒に眠って……。

まだ暗い部屋の中で俺は息を吐いた。

そして、自分の腹にそっと手を当てる。


何も、ない。

薄いだけの腹は自分の息遣いで上下しているだけだ。

当たり前だ。何もない。けれど――


……なぜだろう。


――涙が、止まらなかった。


龍神様がそっと手を伸ばし、俺の頬を拭う。


「……芙蓉?」

「……俺……」


自分でも、どうして泣いているのか分からない。


「……どうして……こんなに……」


胸が痛い。悲しい。

でも――何に対しての涙なのか、俺自身がわからない。

龍神様はしばらく俺を見つめ、それから静かに抱き寄せた。

ぽろぽろと涙が零れ、ただ龍神様の胸に顔を埋めることしかできなかった。


「……君の心が、思い出し始めたんだろう」


その声は穏やかだったが、胸の奥に何かを押し殺すような響きがあった。

まるで――ずっと待っていた瞬間が、ようやく訪れたかのような。

その言葉に、また涙がこぼれる。

俺は何かを、大切な何かを、確かに失っている――。

その夜、俺は龍神様の腕の中で、震えるように眠りについた。

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