目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

36

「ほら、芙蓉! 早く行くぞー!」


灯の弾んだ声に、俺は苦笑しながら足を速めた。

素馨さんに言われて、灯と一緒に街へ出ることになった。

買い出しの用事もあるが、たまには外の空気を吸うのも悪くない、と言われたのだ。


「なんだか、最近よく外に出るようになったな……」


ぼやくと、灯がにっと笑う。


「良いことじゃん。部屋にこもってばかりより、外の空気を吸ったほうが気分転換になるだろ?」

「……まあ、それはそうか」


馨華楼の中も賑やかだが、外の街の活気はまた別物だった。

行き交う人々、店の呼び声、どこからか漂う美味しそうな匂い。

獣の姿をした妖や、宙を舞う妖怪たちが、日常の一部として溶け込んでいる。


「――あっ」


灯が突然足を止めた。


「どうした?」

「なんか、向こうがちょっと騒がしくないか?」


灯の視線の先には、小さな人だかりができていた。

何かあったのかと近づくと、人混みの真ん中に小さな子供の姿があった。


「……子供?」


その子は、露店の品物をじっと覗き込んでいた。

首から小さな首飾りをぶら下げ、じっとそれを握りしめている。


「おいおい、迷子か?」

「……いや、そういう感じでもなさそうだけど……」


俺がそう言った瞬間、子供がふいに振り返った。


「ねえ、お兄ちゃん、これ見て!」


目と目が合った。

綺麗な金色の瞳。

その瞳の輝きに、胸がざわつく。

子供は嬉しそうに、首から下げている首飾りを俺の前に差し出した。

小さな手のひらに乗ったそれは、どこか見覚えのある、不思議な光を放っていた。


――金色の鱗のかけら。


「…………」


息を呑んだ。

なんだろう、これ――どこかで、見たことがある気がする。

でも、思い出せない。


「お兄ちゃん、綺麗でしょ?」

「……それ、どこで手に入れたんだ?」


俺が問うと、子供はきょとんとした顔をしてから、**「もらったの!」**と笑う。


「誰に?」

「んー……お父様!」


俺の胸が、ずきりと痛む。


「お父様……?」


その響きが、心の奥深くを揺らす。

けれど、思い出せない。

何かが、喉の奥に引っかかったような感覚。


「お兄ちゃんも、持ってる?」


子供が無邪気に俺の手を握る。

小さな指が、俺の指先に絡まる――その温もりが、懐かしい。

そう思った瞬間、指先が震えた。


「おい、芙蓉?」


灯の声に我に返る。


「……いや、なんでもない」


俺は子供の手をそっと離し、視線を逸らした。


「それ、大事なものなんだな?なくすなよ」


灯が軽く猫耳を動かしながら子供に言うと、**「うん!」**と誇らしげに頷いた。


――その時。


「そろそろ、行くよ。おいで」


背後から響いた、静かで低い声。

子供が「!」と振り返る。


「お父様!」


そう言って駆け寄っていく子供。

その先に、紺鼠の衣を纏った美しい男が立っていた。


俺と、その男の視線が交差する。

けれど、それは一瞬で、そのまますれ違った。


「芙蓉?行こう」


灯の声に促され、俺は何かを振り払うようにして、その場を後にした。



帰ってからも、あの子供、そして「お父様」という言葉が、頭から離れなかった。


「……お前、また考え事してんな」


準備を手伝ってくれている灯がため息混じりに言う。


「……いや、うん……なんでだろうな……」


どうして、こんなに気になるんだろう。

まるで、俺は――何かを思い出さなきゃいけないような気がする。


「ほらほら、来たぜ!」

「……あ、行ってくる」


俺はそう言い残し、龍神様の待つ部屋へと向かった。


いつものように、龍神様は部屋の中に静かに座っていた。

俺の方を見る瞳は、昼に見た子供と同じ金色だ。

挨拶をして前に座ると、


「……芙蓉、少し様子が変だね」


俺の頬をゆるりと撫でながら、龍神様がそう言った。

俺はその言葉に、少しだけ苦笑した。


「……そうですか?」

「何か、考え込んでいるように見えたよ」


俺は何かを言いかけて――けれど、言葉にならなかった。


「……なんでもないです」


俺は無意識のうちに龍神様の袖を握っていた。


「あ……すみません」


慌てて手を離そうとした瞬間、龍神様が俺の手を握り返した。


「いいんだよ」


その言葉が、何かを崩した。

気づけば、俺は龍神様の胸に顔を埋めていた。


「……ごめんなさい……なんか、寂しくて……」


龍神様は何も言わず、ただ俺を抱きしめた。


「僕がいつもそばにいるよ」


その言葉に、胸が詰まる。


「……俺……誰かを……忘れてるような気がして」

「……思い出しそうなんだね」


龍神様の温もりに包まれながら、俺の中で何かが揺らいでいる。

この腕の中は温かい。

けれど――何かが足りない。


「……なんだろう……何か……すごく、大切なものが……」


ぼんやりと呟くと、龍神様が俺の頬に手を添え、そっと口づけた。

その柔らかい感触に、胸の奥がじんと熱くなる。

けれど、同時に――なぜか喉が詰まりそうなほどの「寂しさ」を感じた。


俺は……何かを……気づきかけている。

何か、とても大切なものを。


その夜、俺は龍神様の腕の中でまどろみながらも、**心の奥に残る「喪失感」**を拭いきれないまま、静かに目を閉じた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?