「ほら、芙蓉! 早く行くぞー!」
灯の弾んだ声に、俺は苦笑しながら足を速めた。
素馨さんに言われて、灯と一緒に街へ出ることになった。
買い出しの用事もあるが、たまには外の空気を吸うのも悪くない、と言われたのだ。
「なんだか、最近よく外に出るようになったな……」
ぼやくと、灯がにっと笑う。
「良いことじゃん。部屋にこもってばかりより、外の空気を吸ったほうが気分転換になるだろ?」
「……まあ、それはそうか」
馨華楼の中も賑やかだが、外の街の活気はまた別物だった。
行き交う人々、店の呼び声、どこからか漂う美味しそうな匂い。
獣の姿をした妖や、宙を舞う妖怪たちが、日常の一部として溶け込んでいる。
「――あっ」
灯が突然足を止めた。
「どうした?」
「なんか、向こうがちょっと騒がしくないか?」
灯の視線の先には、小さな人だかりができていた。
何かあったのかと近づくと、人混みの真ん中に小さな子供の姿があった。
「……子供?」
その子は、露店の品物をじっと覗き込んでいた。
首から小さな首飾りをぶら下げ、じっとそれを握りしめている。
「おいおい、迷子か?」
「……いや、そういう感じでもなさそうだけど……」
俺がそう言った瞬間、子供がふいに振り返った。
「ねえ、お兄ちゃん、これ見て!」
目と目が合った。
綺麗な金色の瞳。
その瞳の輝きに、胸がざわつく。
子供は嬉しそうに、首から下げている首飾りを俺の前に差し出した。
小さな手のひらに乗ったそれは、どこか見覚えのある、不思議な光を放っていた。
――金色の鱗のかけら。
「…………」
息を呑んだ。
なんだろう、これ――どこかで、見たことがある気がする。
でも、思い出せない。
「お兄ちゃん、綺麗でしょ?」
「……それ、どこで手に入れたんだ?」
俺が問うと、子供はきょとんとした顔をしてから、**「もらったの!」**と笑う。
「誰に?」
「んー……お父様!」
俺の胸が、ずきりと痛む。
「お父様……?」
その響きが、心の奥深くを揺らす。
けれど、思い出せない。
何かが、喉の奥に引っかかったような感覚。
「お兄ちゃんも、持ってる?」
子供が無邪気に俺の手を握る。
小さな指が、俺の指先に絡まる――その温もりが、懐かしい。
そう思った瞬間、指先が震えた。
「おい、芙蓉?」
灯の声に我に返る。
「……いや、なんでもない」
俺は子供の手をそっと離し、視線を逸らした。
「それ、大事なものなんだな?なくすなよ」
灯が軽く猫耳を動かしながら子供に言うと、**「うん!」**と誇らしげに頷いた。
――その時。
「そろそろ、行くよ。おいで」
背後から響いた、静かで低い声。
子供が「!」と振り返る。
「お父様!」
そう言って駆け寄っていく子供。
その先に、紺鼠の衣を纏った美しい男が立っていた。
俺と、その男の視線が交差する。
けれど、それは一瞬で、そのまますれ違った。
「芙蓉?行こう」
灯の声に促され、俺は何かを振り払うようにして、その場を後にした。
※
帰ってからも、あの子供、そして「お父様」という言葉が、頭から離れなかった。
「……お前、また考え事してんな」
準備を手伝ってくれている灯がため息混じりに言う。
「……いや、うん……なんでだろうな……」
どうして、こんなに気になるんだろう。
まるで、俺は――何かを思い出さなきゃいけないような気がする。
「ほらほら、来たぜ!」
「……あ、行ってくる」
俺はそう言い残し、龍神様の待つ部屋へと向かった。
いつものように、龍神様は部屋の中に静かに座っていた。
俺の方を見る瞳は、昼に見た子供と同じ金色だ。
挨拶をして前に座ると、
「……芙蓉、少し様子が変だね」
俺の頬をゆるりと撫でながら、龍神様がそう言った。
俺はその言葉に、少しだけ苦笑した。
「……そうですか?」
「何か、考え込んでいるように見えたよ」
俺は何かを言いかけて――けれど、言葉にならなかった。
「……なんでもないです」
俺は無意識のうちに龍神様の袖を握っていた。
「あ……すみません」
慌てて手を離そうとした瞬間、龍神様が俺の手を握り返した。
「いいんだよ」
その言葉が、何かを崩した。
気づけば、俺は龍神様の胸に顔を埋めていた。
「……ごめんなさい……なんか、寂しくて……」
龍神様は何も言わず、ただ俺を抱きしめた。
「僕がいつもそばにいるよ」
その言葉に、胸が詰まる。
「……俺……誰かを……忘れてるような気がして」
「……思い出しそうなんだね」
龍神様の温もりに包まれながら、俺の中で何かが揺らいでいる。
この腕の中は温かい。
けれど――何かが足りない。
「……なんだろう……何か……すごく、大切なものが……」
ぼんやりと呟くと、龍神様が俺の頬に手を添え、そっと口づけた。
その柔らかい感触に、胸の奥がじんと熱くなる。
けれど、同時に――なぜか喉が詰まりそうなほどの「寂しさ」を感じた。
俺は……何かを……気づきかけている。
何か、とても大切なものを。
その夜、俺は龍神様の腕の中でまどろみながらも、**心の奥に残る「喪失感」**を拭いきれないまま、静かに目を閉じた。