宵闇の中、窓の外では、雲の切れ間から月が顔を覗かせていた。
僕は、隣で穏やかに眠る彼の髪をそっと撫でる。
ゆるやかな寝息を立てる彼の姿を、こうして静かに見つめるのは久しぶりだった。
――違う。
「久しぶり」なんて言葉では表しきれない。
こうして彼が隣にいること自体が、奇跡のようなものだった。
長い時間をかけて探し続けた。
再び巡り会えたとしても、彼は記憶を失っていて、僕のことを何も覚えていなかった。
それでも、少しずつ、少しずつ、彼は思い出し始めている。
今夜も、僕の腕の中で寝息を立てる彼を見ていると、ふと昔の記憶が蘇る。
神域で過ごした日々、穏やかな時間。
僕の隣で微笑んでいた彼の姿。
(……ずっと、このままでいてくれたらいいのに)
そんな淡い願いが、心の奥から湧き上がる。
「……橡様……」
――その時。
彼が、小さく、囁くように呟いた。
息を呑む。
けれど、それは希望と同時に、不安をもたらすものだった。
君はどちらだろうか。あの時の、それとも、今の。
「芙蓉……?」
試すように呼んでみる。
すると、彼の目がわずかに揺れた。
……まだ、すべてを思い出したわけじゃない。
安堵と寂しさが、同時に僕を襲う。
彼は「芙蓉」として僕を思い出し始めた。
でも、「長」としての記憶はまだ完全ではない。
それでいい。
むしろ、今はまだ――それでいいんだ。
「……橡様……」
彼は静かに微睡の中で、それでもはっきりと、僕の名前を呼んだ。
「今……僕の名前を呼んだね?」
思わず、そっと彼の頬に触れながら問いかける。
すると、彼はゆっくりと瞼を開いた。
薄闇の中、彼の瞳が瞬く。
「……え?」
まだ夢の中にいるのだろうか。
ぼんやりとした目で僕を見つめたまま、彼は戸惑ったように口を開いた。
「橡様……?」
小さく、確かにその名を呟く。
その瞬間、僕の胸の奥で何かが締めつけられるような感覚がした。
「龍神様……」
確かめるように僕を見る。
「橡様……あなた、が……?」
かすれた声。
僕は彼をそっと引き寄せ、優しく抱きしめた。
「やっと気づいた?」
心からの本音だった。君に呼ばれない時間の長さ。
「……僕のことを、思い出してくれて嬉しいよ」
その言葉に、彼の表情が微かに緩んだ。
「思い出すのを、ずっと待っていたよ」
「……俺……」
記憶の奥にあるものを探すように、ゆっくりと目を閉じる。
「……俺、思い出している気がする。でも、まだ全部じゃなくて……」
彼がそう呟いた。
「……急がなくていい。ゆっくりでいいんだよ」
そう言って、僕は彼の手を握る。
彼の温もりが確かにそこにあることに、安心した。
けれど、同時に――恐怖もあった。
彼が「長」としてのすべてを思い出したとき、
本当に、僕のもとにいてくれるのか。
──僕が守るべきものは……何だ?
君か。子供か。
――違う。比べることじゃない。どちらも、僕にとって大切なもののはずだ。
けれど、正直に言えば――
「子供を取り戻すこと」と「彼が生きてそばにいること」。
どちらを優先するかと問われたら、僕は、迷いなく後者を選んでしまうだろう。
──僕は結局、彼を深く愛してしまっているから……非情なものだ……。
心の中で嘲笑が漏れた。
そんなことを考えていたら、不意に、彼が僕の袖をぎゅっと掴んだ。
「橡様……」
……もし、思い出しても……君はこんな勝手な僕のもとにいてくれるのか?
その問いを、今すぐに投げかけることはできなかった。
だから、僕はただ、彼を抱きしめる手に力を込める。
「……ずっと、そばにいる」
君が記憶を取り戻しても、戻さなくても――。
僕は、君を手放さない。