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橡2

宵闇の中、窓の外では、雲の切れ間から月が顔を覗かせていた。

僕は、隣で穏やかに眠る彼の髪をそっと撫でる。

ゆるやかな寝息を立てる彼の姿を、こうして静かに見つめるのは久しぶりだった。


――違う。


「久しぶり」なんて言葉では表しきれない。

こうして彼が隣にいること自体が、奇跡のようなものだった。


長い時間をかけて探し続けた。

再び巡り会えたとしても、彼は記憶を失っていて、僕のことを何も覚えていなかった。

それでも、少しずつ、少しずつ、彼は思い出し始めている。


今夜も、僕の腕の中で寝息を立てる彼を見ていると、ふと昔の記憶が蘇る。

神域で過ごした日々、穏やかな時間。

僕の隣で微笑んでいた彼の姿。


(……ずっと、このままでいてくれたらいいのに)


そんな淡い願いが、心の奥から湧き上がる。


「……橡様……」


――その時。


彼が、小さく、囁くように呟いた。

息を呑む。

けれど、それは希望と同時に、不安をもたらすものだった。

君はどちらだろうか。あの時の、それとも、今の。


「芙蓉……?」


試すように呼んでみる。

すると、彼の目がわずかに揺れた。


……まだ、すべてを思い出したわけじゃない。


安堵と寂しさが、同時に僕を襲う。

彼は「芙蓉」として僕を思い出し始めた。

でも、「長」としての記憶はまだ完全ではない。


それでいい。

むしろ、今はまだ――それでいいんだ。


「……橡様……」


彼は静かに微睡の中で、それでもはっきりと、僕の名前を呼んだ。


「今……僕の名前を呼んだね?」


思わず、そっと彼の頬に触れながら問いかける。

すると、彼はゆっくりと瞼を開いた。

薄闇の中、彼の瞳が瞬く。


「……え?」


まだ夢の中にいるのだろうか。

ぼんやりとした目で僕を見つめたまま、彼は戸惑ったように口を開いた。


「橡様……?」


小さく、確かにその名を呟く。

その瞬間、僕の胸の奥で何かが締めつけられるような感覚がした。


「龍神様……」


確かめるように僕を見る。


「橡様……あなた、が……?」


かすれた声。

僕は彼をそっと引き寄せ、優しく抱きしめた。


「やっと気づいた?」


心からの本音だった。君に呼ばれない時間の長さ。


「……僕のことを、思い出してくれて嬉しいよ」


その言葉に、彼の表情が微かに緩んだ。


「思い出すのを、ずっと待っていたよ」

「……俺……」


記憶の奥にあるものを探すように、ゆっくりと目を閉じる。


「……俺、思い出している気がする。でも、まだ全部じゃなくて……」


彼がそう呟いた。


「……急がなくていい。ゆっくりでいいんだよ」


そう言って、僕は彼の手を握る。

彼の温もりが確かにそこにあることに、安心した。

けれど、同時に――恐怖もあった。

彼が「長」としてのすべてを思い出したとき、

本当に、僕のもとにいてくれるのか。


──僕が守るべきものは……何だ?


君か。子供か。


――違う。比べることじゃない。どちらも、僕にとって大切なもののはずだ。


けれど、正直に言えば――

「子供を取り戻すこと」と「彼が生きてそばにいること」。


どちらを優先するかと問われたら、僕は、迷いなく後者を選んでしまうだろう。


──僕は結局、彼を深く愛してしまっているから……非情なものだ……。


心の中で嘲笑が漏れた。

そんなことを考えていたら、不意に、彼が僕の袖をぎゅっと掴んだ。


「橡様……」


……もし、思い出しても……君はこんな勝手な僕のもとにいてくれるのか?


その問いを、今すぐに投げかけることはできなかった。

だから、僕はただ、彼を抱きしめる手に力を込める。


「……ずっと、そばにいる」


君が記憶を取り戻しても、戻さなくても――。

僕は、君を手放さない。

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