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――夜が、明けていく。

薄く光が差し込み、静かな朝が訪れようとしていた。

柔らかな温もりを感じながら、俺はゆっくりと目を開ける。

視界に映ったのは、橡様だった。

近い距離で、俺を見つめる金色の瞳。

その優しい視線に、俺の胸がぎゅっと締めつけられる。


「……おはよう」


低く穏やかな声が耳に届く。


「……あ……」


何かを言おうとして、声にならなかった。

喉が詰まるような感覚。


何か、何かが――違う。


夢を見ていた気がする。

でも、どんな夢だったのか思い出せない。

何かが胸の奥にずっと引っかかっていて、それが言葉にならないまま、ただ心の奥で燻っている。

そんな俺を見つめながら、橡様はそっと俺の頬を撫でた。


「泣いているよ」

「……え?」


指先が、俺の頬をそっと拭う。

濡れている――涙……どうして……?


「……俺……」


なぜ泣いているのか分からない。

自分の感情が分からなくて、胸の奥がざわめいた。


「……大丈夫、ゆっくりでいいんだよ」


橡様はそう言って、俺を優しく抱きしめた。

その温もりが、余計に俺を不安にさせる。


……何か、大切なことをまだ忘れている気がする……。

でも、それが何なのか思い出せない……。


自分の胸に手を当てる。

心臓が、少し早く脈打っているのが分かった。


「……もう少し、こうしていてもいいですか……?」

「もちろん」


橡様の腕の中で、俺は静かに目を閉じた。



その日の昼過ぎ。

俺はひとり、部屋の中でぼんやりとしていた。

橡様が帰ったあとも、朝の違和感は拭えなかった。


「……はぁ」


思わずため息が漏れる。

灯を誘い外へ出て、少し歩いたほうが気が紛れるだろうか。

今の時間なら灯は下の階で何かしらしているはずだ。それを手伝ってから、外に出ればいい。

そう考えながら、部屋を出ようとした瞬間――。


「入ってもいいかい?」


襖の向こうから、静かな声がした。

……誰だ?


「……どうぞ」


返事をすると、ゆっくりと襖が開いた。

入ってきたのは――汀様だった。


「ああ……君の顔を見るのは、久しぶりな気がするね」


彼は微笑みながら、扇を閉じる。

相変わらず、どこか気だるげで、けれどその眼差しは鋭い。


「……汀様」


俺は軽く頭を下げる。

初めて会った時のことを思い出す。

確か、馨華楼に龍神様の──橡様の使いとして来ていた人だ。


でも――。


……本当に、初めてだったか?あの時はそう思ったけど……。

不思議と、そう思えなかった。


「君、私のことを不思議そうに見ているね」


汀様がくすりと笑う。


「あの、すみません……」

「気にしなくていいさ」


そう言いながら、汀は部屋の奥へと歩み寄り、静かに腰を下ろした。


「龍神様の様子はどうだった?」


「龍神様──橡様……変わらず、お優しいです」


俺がそう答えると、汀様はふうん、と興味深そうに頷いた。


「なるほど。あれの名前は思い出したんだね」


そう言いながら、汀様は俺をじっと見つめる。


「……何か?」

「いや、少し考えていたんだ。君の記憶は、どれくらい戻っているのかな、とね」

「……俺の、記憶……」


言われて、俺は拳をぎゅっと握った。


「……思い出しかけている気はするんです。でも……全部ではなくて」

「ふむ」


汀様は俺の言葉に、納得したように頷いた。


「まあまあ。無理に思い出すことはないさ」


そう言って、汀様は微笑む。


「思い出す時がくれば、嫌でも思い出すだろうしね」


「……そうでしょうか」

「そういうものさ」


俺が考え込んでいると、ふと、汀様が扇をひらひらと仰ぎながら言った。


「それよりも――灯くんは元気かい?」

「……え?」


突然の話題に、俺は少し戸惑う。


「灯、ですか?」

「ああ」


汀は微笑んだまま、俺の反応を伺うように言う。


「最近、彼とよく話す機会があってね。……なかなか面白い子だと思って」

「……面白い?」

「うん。賑やかで、よく笑うだろう?」

「まあ……それは、確かに」


灯はいつも元気で、場を盛り上げる存在だった。


「それに、猫耳が動くのが可愛くてね」


「……」


俺は汀様の言葉に、なんとなく妙なものを感じた。


「……汀様って、灯のこと、気に入ってます?」

「うん?」


汀様は俺の問いに、あえて曖昧な笑みを浮かべる。


「どうだろうね」

「……まあ、嫌いじゃなさそうですね」

「ふふ」


汀様は扇で口元を隠す。


「君も、気づいているんだろう?」

「え?」

「灯くんも、君のことを気にかけているよ。……まあ、彼の場合は『仲間』として、だろうけどね」

「……そう、ですかね」


灯とはよく一緒にいる。

助けられることも多いし、俺も彼のことは信頼しているつもりだ。


「まあ、私のことより、君のことを気にしなさい」


汀様はそう言いながら、扇を閉じて立ち上がる。


「今日は君の様子を見に来ただけだからね。また来るよ。ちょっと灯くんも見て帰ろう」


そう言い残し、汀様は襖を開けた。


俺は、その背中を見送りながら――。

やっぱり、どこかで会ったことがあるような気がする。

そう思わずにはいられなかった。

その感覚が、確信に変わる日も近いのかもしれない。

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