――夜が、明けていく。
薄く光が差し込み、静かな朝が訪れようとしていた。
柔らかな温もりを感じながら、俺はゆっくりと目を開ける。
視界に映ったのは、橡様だった。
近い距離で、俺を見つめる金色の瞳。
その優しい視線に、俺の胸がぎゅっと締めつけられる。
「……おはよう」
低く穏やかな声が耳に届く。
「……あ……」
何かを言おうとして、声にならなかった。
喉が詰まるような感覚。
何か、何かが――違う。
夢を見ていた気がする。
でも、どんな夢だったのか思い出せない。
何かが胸の奥にずっと引っかかっていて、それが言葉にならないまま、ただ心の奥で燻っている。
そんな俺を見つめながら、橡様はそっと俺の頬を撫でた。
「泣いているよ」
「……え?」
指先が、俺の頬をそっと拭う。
濡れている――涙……どうして……?
「……俺……」
なぜ泣いているのか分からない。
自分の感情が分からなくて、胸の奥がざわめいた。
「……大丈夫、ゆっくりでいいんだよ」
橡様はそう言って、俺を優しく抱きしめた。
その温もりが、余計に俺を不安にさせる。
……何か、大切なことをまだ忘れている気がする……。
でも、それが何なのか思い出せない……。
自分の胸に手を当てる。
心臓が、少し早く脈打っているのが分かった。
「……もう少し、こうしていてもいいですか……?」
「もちろん」
橡様の腕の中で、俺は静かに目を閉じた。
※
その日の昼過ぎ。
俺はひとり、部屋の中でぼんやりとしていた。
橡様が帰ったあとも、朝の違和感は拭えなかった。
「……はぁ」
思わずため息が漏れる。
灯を誘い外へ出て、少し歩いたほうが気が紛れるだろうか。
今の時間なら灯は下の階で何かしらしているはずだ。それを手伝ってから、外に出ればいい。
そう考えながら、部屋を出ようとした瞬間――。
「入ってもいいかい?」
襖の向こうから、静かな声がした。
……誰だ?
「……どうぞ」
返事をすると、ゆっくりと襖が開いた。
入ってきたのは――汀様だった。
「ああ……君の顔を見るのは、久しぶりな気がするね」
彼は微笑みながら、扇を閉じる。
相変わらず、どこか気だるげで、けれどその眼差しは鋭い。
「……汀様」
俺は軽く頭を下げる。
初めて会った時のことを思い出す。
確か、馨華楼に龍神様の──橡様の使いとして来ていた人だ。
でも――。
……本当に、初めてだったか?あの時はそう思ったけど……。
不思議と、そう思えなかった。
「君、私のことを不思議そうに見ているね」
汀様がくすりと笑う。
「あの、すみません……」
「気にしなくていいさ」
そう言いながら、汀は部屋の奥へと歩み寄り、静かに腰を下ろした。
「龍神様の様子はどうだった?」
「龍神様──橡様……変わらず、お優しいです」
俺がそう答えると、汀様はふうん、と興味深そうに頷いた。
「なるほど。あれの名前は思い出したんだね」
そう言いながら、汀様は俺をじっと見つめる。
「……何か?」
「いや、少し考えていたんだ。君の記憶は、どれくらい戻っているのかな、とね」
「……俺の、記憶……」
言われて、俺は拳をぎゅっと握った。
「……思い出しかけている気はするんです。でも……全部ではなくて」
「ふむ」
汀様は俺の言葉に、納得したように頷いた。
「まあまあ。無理に思い出すことはないさ」
そう言って、汀様は微笑む。
「思い出す時がくれば、嫌でも思い出すだろうしね」
「……そうでしょうか」
「そういうものさ」
俺が考え込んでいると、ふと、汀様が扇をひらひらと仰ぎながら言った。
「それよりも――灯くんは元気かい?」
「……え?」
突然の話題に、俺は少し戸惑う。
「灯、ですか?」
「ああ」
汀は微笑んだまま、俺の反応を伺うように言う。
「最近、彼とよく話す機会があってね。……なかなか面白い子だと思って」
「……面白い?」
「うん。賑やかで、よく笑うだろう?」
「まあ……それは、確かに」
灯はいつも元気で、場を盛り上げる存在だった。
「それに、猫耳が動くのが可愛くてね」
「……」
俺は汀様の言葉に、なんとなく妙なものを感じた。
「……汀様って、灯のこと、気に入ってます?」
「うん?」
汀様は俺の問いに、あえて曖昧な笑みを浮かべる。
「どうだろうね」
「……まあ、嫌いじゃなさそうですね」
「ふふ」
汀様は扇で口元を隠す。
「君も、気づいているんだろう?」
「え?」
「灯くんも、君のことを気にかけているよ。……まあ、彼の場合は『仲間』として、だろうけどね」
「……そう、ですかね」
灯とはよく一緒にいる。
助けられることも多いし、俺も彼のことは信頼しているつもりだ。
「まあ、私のことより、君のことを気にしなさい」
汀様はそう言いながら、扇を閉じて立ち上がる。
「今日は君の様子を見に来ただけだからね。また来るよ。ちょっと灯くんも見て帰ろう」
そう言い残し、汀様は襖を開けた。
俺は、その背中を見送りながら――。
やっぱり、どこかで会ったことがあるような気がする。
そう思わずにはいられなかった。
その感覚が、確信に変わる日も近いのかもしれない。