汀様が去った後も、俺の胸の奥には、なんとも言えないざわつきが残っていた。
(……記憶、か……)
思い出しかけている。そんな感覚がある。
けれど、それを掴もうとすると、すり抜けていくようだった。
そんな翌日。
「今日は、少し外に出ようか」
龍神様――いや、橡様がそう言った。
「外、ですか?」
「うん。たまには外の空気を吸うのも悪くないだろう?」
「……確かに、そうですね」
外へ出るのは嫌いじゃない。
それに、橡様と二人で出かけるのは、初めてのことだった。
街は相変わらず賑やかだった。
行き交う人々の声、店から漂う甘いお菓子の匂い、屋台の賑わい――。
こうしてみると、本当にここは活気に溢れている。
橡様は俺の隣を静かに歩きながら、ふと微笑んだ。
「どう?」
橡様と並んで歩くこの景色が、なぜか妙に懐かしく感じた。
初めてのはずなのに、この空気、この風景――俺は確かに知っている気がする。
「……変な感じです」
ぼそりと呟くと、橡様が横でふっと微笑んだ。
「どうして?」
「なんだか、前にもこうして橡様と歩いていたような気がして……」
「ふふ、それは嬉しいね」
橡様は静かに俺の手を取った。
「でも、それは“気がする”じゃなくて、本当のことだよ」
俺は驚いて橡様を見上げる。
「……本当のこと?」
橡様はそれ以上言わなかった。
それでも、その手のぬくもりが俺を確かに安心させる。
そんな中、組紐屋の前で俺と橡様は足を止めた。
赤、青、紫、金――色とりどりの組紐が並んでいた。
手を伸ばしかけた瞬間、ふと耳に覚えのある声がした。
「やあやあ、これはまた……これは何かの縁でしょうかこん?」
俺は驚いて視線を上げる。
「……え?……」
そこにいたのは、小さな狐の妖だった。
「やっぱり君だったこんねえ!」
狐の妖は尻尾をふわふわと揺らしながら、俺を見つめてくる。
「お久しぶりこん!」
俺は困惑しながら橡様の方を見た。
「……俺、このお店に来たことがあるんですか?」
橡様は穏やかに頷く。
「昔、君と一緒に来たことがあるよ」
「……俺と、橡様が……?」
狐の妖はくすくすと笑った。
「えー悲しいこん!覚えててくれだ、こん!君が初めてここに来た時、橡様がとても大事そうに君の手に組紐を結んでくれたんだこん!」
「……っ!」
橡様が、俺の手首に結んでくれた――。
手首を見遣る。そこにある組紐。
その記憶が──ふっと蘇る。
暖かな手のひら、優しく結ばれた組紐。
あの時、確かに俺は――。
(……橡様に……贈られた……?)
手首に触れる。
今も変わらず、俺の手首にはあの時の組紐が巻かれている。
「おやおや? 君の目が少し変わったこんね?」
狐の妖が俺の顔を覗き込む。
「何かわかったこん?」
「……わかりません……でも、懐かしい気がします……」
狐は微笑んだ。
「それなら十分こん!」
くるりと回って、狐は俺の前に小さな組紐を差し出す。
「これを持っていくといいこん。きっと、君の記憶を繋ぐ鍵になるはずだからこん!」
「え、でも……」
「貰っておくといいよ」
橡様がにっこりと笑って頷いた。
俺は狐の手から、そっと組紐を受け取る。
それは、かつて橡様にもらったものとそっくりな、紺色に金糸の組紐だった。