静かな夜。
橡様の寝息が隣で穏やかに聞こえる中、俺はどこか落ち着かない気持ちで横になっていた。
昼間に橡様と街を歩いたときのこと、組紐の屋台の狐、そして――俺の左目。
(どうして、俺の目は……)
今まであまり気にしてこなかった。
でも、組紐を結んでもらったとき、橡様の金色の瞳を見た瞬間に、ふと気になってしまった。
俺の目は、なぜ片方しかないのか。
昔からだったのか、どうなのか……。
何かが、違和感のように胸の奥に引っかかる。
そんなことを考えながら、俺の意識はゆっくりと眠りの淵へと沈んでいった。
※
暗闇の中、俺は誰かと向かい合っていた。
相手の顔は見えない。けれど、その気配だけは、はっきりと感じる。
「……やめろ……!」
自分の声が響く。
恐怖に震える自分の声。
何かが、俺の顔に近づいてくる――。
強い力で、顔を押さえつけられる。
「やめてくれ……!」
次の瞬間――
ズッ……
「……!!!」
灼熱の痛み。
頭の中が真っ白になり、世界がぐるりと歪む。
何かが引き剥がされる感覚。
熱い。熱い。熱い――。
左目が……無い。
「っ――が……ぁあ……!!」
全身を貫く、痛みと恐怖。
視界が赤く染まり、意識が遠のいていく――。
※
「――っ!!」
俺は息を詰まらせながら、はっと目を開いた。
荒い呼吸が部屋の静寂を破る。
……夢、か?
額にはびっしょりと汗が滲んでいた。
指先が震えている。
何を見たのか、完全には思い出せない。
けれど、確かに――俺は、左目を奪われた。
その瞬間の痛みだけが、今も鮮明に残っている。
(……目が……)
ふと、手を伸ばして自分の顔を触れる。
指先が左目の部分に触れると、そこには何もなかった。
「……っ」
改めて確認すると、胸の奥がじわりと痛む。
当たり前に思っていたことなのに、今になってそれが「異常なこと」だと強く感じる。
「芙蓉?」
静かな声が、耳元で響いた。
顔を上げると、橡様が俺の方を覗き込んでいた。
「……橡、様……」
言葉がうまく出ない。
息が乱れて、胸が苦しい。
「……大丈夫?」
そう言いながら、橡様の手がそっと俺の頬に触れる。
指先がひんやりとしていて、火照った肌に心地よかった。
「……大丈夫……です」
そう言おうとした。けれど――
「……っ……」
言葉よりも先に、涙が溢れた。
「……芙蓉」
橡様がゆっくりと俺の身体を引き寄せる。
汗ばんだ俺の身体を、その腕の中に包み込むようにして。
「あっ、その汗が……」
「気にしないよ、そんなこと。怖い夢を見たんだね」
「……わかりません……ただ、すごく痛くて……」
声が震えた。
俺は、何を思い出した?
どうして、左目を……?
橡様の胸に顔を埋めると、そこからほんのりと懐かしい香りがした。
「……大丈夫だよ」
橡様の手が、俺の髪をそっと撫でる。
その仕草があまりにも優しくて、俺は少しずつ落ち着きを取り戻していった。
けれど――
(……俺の左目……)
その疑問だけが、ずっと頭の中に残っていた。
※
翌朝、俺がまだぼんやりとしたまま身支度を整えていると、部屋の外から声がした。
「芙蓉くん、いるかい?」
聞き覚えのある、柔らかな声。
「……汀様?」
戸を開けると、そこにはやはり、湖面のような青い瞳をした汀様が立っていた。
「おはよう。調子はどうだい?あ、嫉妬深い龍神様はお帰りか」
「橡様なら先ほど……まあ、なんとか」
言葉を濁すと、汀様は俺の顔をじっと見つめた。
「……おや?」
「……?」
「まだ戻らないんだね」
「……え?」
俺は思わず眉を寄せた。
「何の話ですか?」
そう尋ねると、汀様は「さてね」と笑った。
だが、その瞳はどこか意味深だった。
「……」
汀様は、俺の左目をじっと見つめる。
「……君の記憶、もう少しだね」
「……何か知ってるんですか?」
思わず問い詰めそうになった。
「さあ?」
汀様はまた笑って誤魔化す。
けれど、確かに知っているのだろう。
俺の目がどうしてこうなったのか。
俺が何を失ったのか。
「まあ、それは置いといて」
汀様はふと視線を横にやった。
「今日は灯くんはいないのかい?」
「……え?」
「ちょっと気に入ってね、あの子。連れて帰りたいなぁ……」
汀様がくすっと笑う。
「……えぇ……」
灯のことを気に入ったって、どういう意味で……?
「その前に口説かないとね。また今度、一緒に飲みたいな」
汀様はそう言って、俺の肩を軽く叩いた。
「じゃあ、また来るよ」
そう言い残し、汀様はゆっくりと歩いていく。
その背中を見送りながら、俺はまだ少しだけ、昨夜の夢の余韻に囚われていた。