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夜──馨華楼の空気はいつも通りの賑やかさだ。

けれど、俺の心は静まらない。


(……左目が、どうしても気になる)


ずっと気にならなかったのに、橡様と出かけたあとから、違和感が拭えなくなった。

組紐を巻いた手首を撫でながら考え込んでいると、不意に扉が叩かれた。


「芙蓉、ちょっといいかい?」


素馨さんの声だった。


「……はい」


扉を開けると、そこには扇を手にした素馨さん、そして汀様が優雅に微笑んでいる。


「やあ、芙蓉くん。夜分に悪いね」

「……汀様?」

「橡が君と話す前に、私から少し話しておいたほうがいいと思ってね」


汀様は部屋へと入り、素馨さんと共に卓につく。

俺も慌てて座り直すと、素馨さんが扇を広げながら微笑んだ。


「ちょっと込み入った話になるからね。……汀様、頼みましたよ」

「ええ」


汀様は軽く頷き、優雅に扇を仰ぐと、ゆっくりと切り出した。


「芙蓉くん、君の左目――そこに何があったか覚えているかい?」

「え……?」


俺は自分の左目に手を当てる。

光も闇も感じないそこは、空洞だ。


「目、ではなくですか……?」

「そこにはね、、本来なら逆鱗が宿っているはずだった」

「……!」


俺の胸が強くざわざわと鳴り始める。


「逆鱗……?」

「そうだよ。逆鱗とは龍神の一部とも言える大切なもの。それを……橡は君に与えたんだ。瞳の代わりとしてね」


汀様の声音は穏やかだったが、その意味するところは決して軽くはなかった。


「……俺に?」

「そう。龍神の逆鱗は、強い力を持つと同時に、宿主と強く結びつくものだ。……君の目が片方ないのは、ただの事故なんかじゃない」


俺は思わず左目のあたりに手を当てる。


「……じゃあ、俺の目は……?」


汀様は一瞬言葉を選ぶように黙った。

その間に、素馨さんが軽く扇を閉じて口を開いた。


「君の左目は、獣にやられてしまってね。駄目だった」

「獣、に……」


夢と結びつく言葉だった。

あの恐ろしい夢。それが現実であったということだ。

でも、おかしい。今の話ならば、俺のここには……。


「逆鱗は、どこにいったんですか……?橡様の……」

「あまり慌てないんだね。いいことだよ。橡の逆鱗は幽世にはない」

「……え?」


ない。どういうことだろうか?

俺が不審げに首を傾げると、素馨さんが口を開いた。


「汀様の情報によると――人間界にあるらしいよ」

「人間界……!?」


思わず息を呑む。


「君は元々人間だけれど……記憶を失っているからね。あまり覚えはないかもしれない。しかし逆鱗が幽世ではなく、わざわざ人間界に──隠されているのなら、それ相応の理由がある。何者かが、逆鱗を利用しようとしているか、あるいは――君の記憶が戻るのを防ぎたかったか」


汀様は静かに言葉を紡いだ。


「いずれにしても、君が逆鱗を取り戻さない限り、すべてを思い出すことは難しいだろうね」


俺の記憶と、逆鱗。

それが繋がっている……?

思い出さなければならない。

俺は未だに自分の名前も出てきてはいない。でも――。


「……どうやって人間界へ?」


そう尋ねると、素馨さんは苦笑した。


「その点は問題ないよ。汀様が案内してくれるそうだ。ただ――問題は橡様だね」

「……!」

「彼が君を手放すとは思えないけれど、どうする?」


汀様が穏やかに問いかける。

俺は、しばらく答えられなかった。

……橡様は、行かせてくれないかもしれない。

けれど、俺は行かなくちゃならない。

逆鱗を取り戻すために。

そして――


「……俺、話してみます」


静かに、けれど決意を持ってそう答えた。

素馨さんは扇で口元を隠しながら、楽しげに目を細める。


「さて、龍神様がどんな顔をするか……楽しみだね」


汀様は小さく笑った。


「まあ、行かせたくないと駄々をこねるさ。私は君が決めたのなら、それでいいと思う。あとは、どう説得するかだね」


俺は唇を引き結び、小さく頷いた。



夜も更け、橡様が訪れる時間になった。

俺は静かに座りながら、心を落ち着ける。


「……」


きっと、橡様は反対するだろう。

でも、俺が行かなくちゃならない……記憶を戻したい。

そう考えていると、襖が静かに開く。


「こんばんは、芙蓉」


変わらない優しい声音。

けれど、俺は橡様の金色の瞳を見た瞬間、少しだけ胸が痛んだ。


「お待ちしていました、橡様」


俺がそう言うと、橡様は少し首を傾げる。


「……何か、考え事をしていたみたいだね?」


やはり、すぐに見抜かれてしまう。


「……実は、話があります」


俺はゆっくりと、橡様の前に膝をついた。


「橡様……俺、人間界へ行きたいんです」


橡様の瞳が、ふと揺れた。


「……どうして?」

「俺の左目――逆鱗を、取り戻したい」


橡様は、静かに俺を見つめる。


「それは……汀が言ったの?」


「はい。汀様が調べてくれました。橡様の逆鱗は、人間界にあるのだと……」


橡様はゆっくりと目を閉じ、そして小さく息を吐いた。


「……行かせたくないなぁ……」

「橡様……」

「……君を、失うかもしれないから」


その言葉が、胸に深く突き刺さる。


「でも、俺は……」

「……行きたいんだね?」


俺は静かに頷いた。

橡様はしばらく何も言わなかった。

そして、ゆっくりと俺の頬に手を添える。


「……僕の隣にいてくれれば、それでいいのに……」


その言葉が、あまりにも切なくて。


「俺も、そうしたいです。でも……知りたいんです。俺の記憶を」


橡様は目を伏せ、しばらく黙っていた。

そして――ゆっくりと俺を抱きしめる。


「……分かった。けれど、僕もついてゆくよ」

「え?」

「もうね、君のいない時間は嫌なんだよ。情けない話かもしれないけれど。今だってずっと一緒に居たい気持ちを抑えて……ここに通っているんだよ?」


俺は、胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じた。


「わかりました。橡様が一緒なら、俺も嬉しいです」


俺は組紐をぎゅっと握りながら、橡様の腕の中で静かに言った。

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