馨華楼の入り口に立ち、俺はこれから向かう先に思いを巡らせていた。
幽世を抜け、人間界へ――。
「本当に行くんだね……」
そう呟いたのは素馨さんだった。
夜の帳が降りる中、微かな灯火が俺たちを照らしている。
「ええ……俺は、行かなきゃいけない気がするんです」
左目を抑えながらそう答えると、素馨さんは静かに頷いた。
「何かあれば、すぐに知らせなよ」
素馨さんがそう言った直後、ふと汀様が視線を横へ向ける。
「さて、そろそろ行こうか」
汀様の言葉に頷き、俺も踏み出そうとした、その時――
「おーい! 置いてくなよー!」
「……は?」
驚いて振り返ると、そこにいたのは灯だった。
「なんで、お前が……!?」
「は? そりゃ行くに決まってんだろ」
当たり前のような顔で言う灯に、俺は目をぱちくりとさせる。
素馨さんは苦笑を漏らしていた。
「いや、だって……お前、人間界に行くって……」
「行くぞ!」
灯は俺の言葉を遮るように言い、汀様の方を向いた。
「なあ汀様! 俺、前から人間界に興味あったんだよ! 一回行ってみたかったんだよなー!」
汀様は面白そうに微笑んだ。
「ふふ、まあ確かに、君なら面白い体験ができるかもしれないね」
「だろ? だから俺も連れてけ!」
勝手に決めている灯に、俺は頭を抱えた。
「はぁ……お前、本当に自由だな……いいんですか?素馨さん」
「まあ、その子は借金があるわけじゃないからね。いいよ、灯一緒に行っておいで」
「やっぱり素馨さんはわかってんにゃ!」
灯はにっと笑い、猫耳をぴこぴこと動かした。
「その猫耳、人の世では隠すんだよ?」
「もちろーん!」
灯は頷きながら自分の頭を触る。そうすると猫耳が消えた。
俺はため息をつきながらも、少しだけ心が和らいだ。
(……こういう時の灯は頼りになるんだよな)
「では、行こうか」
汀様が扇を広げ、一振りする。
その瞬間、目の前の空気がゆらりと揺れ、異界への扉が開かれた。
「芙蓉、手を」
橡様が俺の手を取り、柔らかく握る。
その手の温かさに、俺は少しだけ緊張が解けた。
「行こう」
橡様の優しい声と共に、俺たちは幽世を抜け、人間界へと踏み出した――。
※
空の色が変わり、風が吹く。
降り立ったのは人のいない神社だった。
鳥居の向こうでは人々のざわめきが聞こえる。
「……わぁ」
灯が目を輝かせながら辺りを見回す。
「すげえ! これが人間界かぁ!」
道を行き交う人々、屋台の明かり、風に乗る食べ物の香り。
幽世とはまるで違う、しかし俺にとってはどこか懐かしい光景だった。
「すごいですね……」
俺がそう呟くと、隣の橡様が静かに頷いた。
「……久しぶりだな」
「橡様も、人間界に来ることは少ないんですか?」
「うん。……あまり来ることはない。様子を向こうからはよく見るんだよ。良くも悪くも神の世で起こることはこちらにも影響するんだ」
橡様の視線が街の灯に向かう。
「……人間は変わっていく。時代が変わるたびに、街も、人も、何もかもがね」
「……」
「でも……」
そう言って、橡様は俺を見た。
「君とこうしてここにいるのは、悪くないね」
その言葉に、俺の心臓が鼓動を早くする。
「……橡様……」
俺はぎゅっと組紐を握りしめた。