目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

42

馨華楼の入り口に立ち、俺はこれから向かう先に思いを巡らせていた。

幽世を抜け、人間界へ――。


「本当に行くんだね……」


そう呟いたのは素馨さんだった。

夜の帳が降りる中、微かな灯火が俺たちを照らしている。


「ええ……俺は、行かなきゃいけない気がするんです」


左目を抑えながらそう答えると、素馨さんは静かに頷いた。


「何かあれば、すぐに知らせなよ」


素馨さんがそう言った直後、ふと汀様が視線を横へ向ける。


「さて、そろそろ行こうか」


汀様の言葉に頷き、俺も踏み出そうとした、その時――


「おーい! 置いてくなよー!」

「……は?」


驚いて振り返ると、そこにいたのは灯だった。


「なんで、お前が……!?」

「は? そりゃ行くに決まってんだろ」


当たり前のような顔で言う灯に、俺は目をぱちくりとさせる。

素馨さんは苦笑を漏らしていた。


「いや、だって……お前、人間界に行くって……」

「行くぞ!」


灯は俺の言葉を遮るように言い、汀様の方を向いた。


「なあ汀様! 俺、前から人間界に興味あったんだよ! 一回行ってみたかったんだよなー!」


汀様は面白そうに微笑んだ。


「ふふ、まあ確かに、君なら面白い体験ができるかもしれないね」

「だろ? だから俺も連れてけ!」


勝手に決めている灯に、俺は頭を抱えた。


「はぁ……お前、本当に自由だな……いいんですか?素馨さん」

「まあ、その子は借金があるわけじゃないからね。いいよ、灯一緒に行っておいで」

「やっぱり素馨さんはわかってんにゃ!」


灯はにっと笑い、猫耳をぴこぴこと動かした。


「その猫耳、人の世では隠すんだよ?」

「もちろーん!」


灯は頷きながら自分の頭を触る。そうすると猫耳が消えた。

俺はため息をつきながらも、少しだけ心が和らいだ。


(……こういう時の灯は頼りになるんだよな)


「では、行こうか」


汀様が扇を広げ、一振りする。

その瞬間、目の前の空気がゆらりと揺れ、異界への扉が開かれた。


「芙蓉、手を」


橡様が俺の手を取り、柔らかく握る。

その手の温かさに、俺は少しだけ緊張が解けた。


「行こう」


橡様の優しい声と共に、俺たちは幽世を抜け、人間界へと踏み出した――。



空の色が変わり、風が吹く。

降り立ったのは人のいない神社だった。

鳥居の向こうでは人々のざわめきが聞こえる。


「……わぁ」


灯が目を輝かせながら辺りを見回す。


「すげえ! これが人間界かぁ!」


道を行き交う人々、屋台の明かり、風に乗る食べ物の香り。

幽世とはまるで違う、しかし俺にとってはどこか懐かしい光景だった。


「すごいですね……」


俺がそう呟くと、隣の橡様が静かに頷いた。


「……久しぶりだな」

「橡様も、人間界に来ることは少ないんですか?」

「うん。……あまり来ることはない。様子を向こうからはよく見るんだよ。良くも悪くも神の世で起こることはこちらにも影響するんだ」


橡様の視線が街の灯に向かう。


「……人間は変わっていく。時代が変わるたびに、街も、人も、何もかもがね」

「……」

「でも……」


そう言って、橡様は俺を見た。


「君とこうしてここにいるのは、悪くないね」


その言葉に、俺の心臓が鼓動を早くする。


「……橡様……」


俺はぎゅっと組紐を握りしめた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?