昨夜は近場の宿を汀様が準備してくれていた。
翌朝、人間界の街へと出る。
そこは朝日と共に活気を帯びていた。
屋台の準備をする人々、魚を売る声、行き交う人々の笑顔。
幽世にはない「生の営み」が、そこにはあった。
「……へぇ」
灯は目を輝かせながら、店先に並ぶ品物を興味津々に眺めていた。
「これが人間の飯か! すげぇな、いい匂いする!」
目の前の屋台では、焼きたての饅頭が湯気を立てている。
「灯、あまりはしゃぐと目立つよ」
俺は苦笑しながらそう言ったが、灯は気にする様子もなく鼻をひくひくさせている。
「だってこんなに美味そうなのに、食わずにいられるかよ! なあ、汀様!」
「ふふ、確かに食べ物はこちらの醍醐味の一つだからね」
汀様は優雅に扇を仰ぎながら微笑んだ。
「でも、はしゃぎすぎて耳を出さないようにね?」
「うっ……で、出てる……?」
灯が気にして、いつもは猫の耳がぴんと立っている頭を触った。
「お腹が空いているなら食べたらいいよ。ほら」
橡様が柔らかくそう言うと、灯は途端に顔を上げた。
「マジで!? いいのか!?」
「汀も言ったように、醍醐味の一つだよ」
橡様は微笑みながら灯に銭を渡した。
灯は嬉しそうに饅頭を買い求める。
「……なんか、お母さんみたいですね、橡様」
俺がそう言うと、橡様はくすっと微笑んだ。
「あの子が喜ぶと君も嬉しそうだからね。君のためなら、僕は何にでもなるよ」
その言葉に、俺の心臓が少しだけ跳ねた。
(……この人は、やっぱり優しすぎる)
目を伏せながら、俺はふと周囲の景色を見渡した。
すると、ある一角で、人混みが少しざわついているのが見えた。
(……?)
何かと思い、視線を向けた瞬間――
「…………」
俺の視界が、ぐらりと揺れた。
(……あれ……?)
どこかで見たことがある光景。
懐かしい――いや、思い出せそうで、思い出せない。
街の一角に、小さな子供の姿が見えた。
赤い着物に、首には――金色に輝く鱗の欠片。
(……この子……)
以前、幽世の市場で出会った子供だ。
だが、どうして……?
「芙蓉?」
橡様の声で、俺はハッとする。
「……すみません。ちょっと、気になることがあって」
俺は、子供の方へ歩き出した。
灯も俺の視線の先に気づき、軽く眉を上げる。
「あ、あの時の……」
俺たちが近づくと、子供がこちらに気づいたように目を丸くした。
「……あ、お兄ちゃん!」
その声に、俺は足を止める。
「……え?」
子供が駆け寄ってくる。
「この前、会ったよね! えっと……市場で!」
小さな手が俺の袖を引く。
「覚えてる?」
無邪気な笑顔。
「……お兄ちゃん?」
その子の目の色が、さぁっと茶から金に変わった。
ほんの一瞬のことだった。次の瞬間には、元の茶色に戻っている。
俺は、子供の瞳をまじまじと見つめた。
(……今の、なんだ?)
――それにどこかで、見たことがある。
いや、それだけじゃない。
この子の声も、仕草も……何かを思い出しそうで、思い出せない。
「……君は……」
その時、不意に誰かが俺の肩を掴んだ。
「……行こう、芙蓉」
耳元で響いた橡様の低い声に、俺は驚いて振り向く。
「でも、この子……」
「……今は、まだ……。あちらで皆待ってるよ」
橡様の手に力がこもる。
「……?」
俺は、戸惑いながらも、橡様の真剣な表情に逆らえなかった。
子供は少し不思議そうに首を傾げた後、ぱっと明るい笑顔を見せる。
「また会えるよね!」
「う、うん……」
そう言って、くるりと踵を返し、人混みの中へと消えていった。
「……っ」
俺は、何かを叫びそうになった。
でも、声が出なかった。
何かを思い出しそうだったのに――。
橡様が、俺の手をぎゅっと握る。
「……引かれ合うか……行こう」
その言葉に、俺は頷くしかなかった。
※
その夜、宿で横になっていると、再び夢を見た。
どこか遠くで、赤ん坊の泣き声が聞こえる。
「……お前は、俺が……」
囁く声。
誰かが、俺に語りかけている。
暗闇の中、俺は揺りかごの前に立っていた。
そこに、赤子がいる。小さな、小さな命。
(……俺は……この子を……)
手を伸ばす。その瞬間――
「やめろ!!!」
怒気を孕んだ、誰かの声。
低く、強く、俺の心臓に突き刺さるような響き。
(……誰の声だ?)
どこかで聞いたことがある。
でも、恐ろしくて――思い出せない。
視界が歪む。
次の瞬間、俺は激しく跳ね起きた。
「……っ!」
荒い息。額には汗が滲んでいる。それがぽたりと落ちた。
「芙蓉……?」
橡様がすぐそばにいた。
「また……夢を……」
「あれは……子供、が……」
橡様は黙って俺を抱き寄せた。
「……思い出せそう?」
俺は、ゆっくりと首を横に振る。
「……まだ……でも、何かが……」
橡様は俺の髪を撫でる。
「……大丈夫だよ。僕はずっとそばにいる」
その言葉に、俺の胸が締め付けられる。
(……俺は、何を忘れている?)
手を見つめる。
子供の手が触れた場所を。
(あの子……俺は、あの子を……知っている……?)
俺は、強く唇を噛み締めた。