夜が更け、静寂があたりを包む。宿の一室はひっそりと静まり返っていた。
窓の外には人間界の月が浮かび、街の明かりがちらちらと揺れている。
橡様は隣で静かに横になり、安らかな寝息を立てていた。
けれど、俺はなかなか寝つけなかった。
旅の疲れもあるはずなのに、身体が落ち着かない。
思い出しそうな何かが喉の奥につっかえたまま、抜けてくれないのだ。
(俺の左目……逆鱗……)
汀様から聞いた話を思い返す。
逆鱗は本来、橡様の一部であり、彼の力の象徴とも言える大切なもの。
それを俺に与えてくれた。
しかし――それは、今俺の元にはない。
人間界にある、という話だった。
俺の左目を覆う空洞に、無意識に手を当てる。
この違和感に慣れきってしまっていたけれど、俺は本来、ここに瞳を持っていたのかもしれない。
(……何が、どうしてこうなった?)
考えても答えは出ない。
だが、橡様が言ったように、俺が思い出さなければならないことがあるのは確かだった。
ゆっくりと目を閉じる。
まどろみが俺を引き込み、意識がゆっくりと深い闇へと沈んでいった。
※
どこかで、水の流れる音がする。
静かな水面が揺れ、そこに映るのは――金色に輝く鱗だった。
「……お前は、誰だ?」
誰かの声がする。
低く、優しいけれど、どこか悲しげな声。
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
目の前には、誰かが立っている。
……橡様?
そう思ったが、違う。
橡様によく似た姿をしているが、その気配は違う。
そして――彼の腕の中には、小さな金色の光があった。
「……この子は、お前のものだ」
男が静かに、俺に向かってそう言った。
俺のもの……?
それが何を意味するのか理解できないまま、俺はその光をじっと見つめる。
――その瞬間。
「やめろ!!!」
怒声が響いた。誰のものかわからない、その声。
視界が歪む。
強い衝撃が走り、何かが弾けるようにして俺の目の前から消え去った。
※
「――っ!!」
俺は飛び起きた。
息が荒く、心臓が激しく打っている。
額には冷たい汗が滲み、それが滴となって頬を伝った。
夢、か……?
けれど、ただの夢じゃない。
俺は、何かを思い出しかけていた。
大切な何か。
「芙蓉……?」
優しく、静かな声が耳に届いた。
気がつくと、橡様が隣に座り、心配そうに俺を覗き込んでいた。
金色の瞳が、月明かりを受けて静かに揺れている。
「……また、夢を見たんだね」
俺は息を整えながら、ゆっくりと頷いた。
「……はい。でも、よく覚えてなくて……」
頭を押さえながら、さっきの光景を思い出そうとする。
「……俺、誰かに……」
お前のもの。
確かに、そう言われた。
けれど、それが誰なのか――その記憶だけが靄がかかったように曖昧で掴めない。
橡様は何も言わず、静かに俺を抱き寄せた。
「……焦らなくていいよ」
優しく髪を撫でる仕草が、ひどく心地よかった。
「少しずつ、思い出していけばいい」
その言葉に、俺の胸がじんと温かくなる。
「……俺、思い出せますかね」
「うん。君なら、きっと。本当はね、このまま連れて帰ってしまいたい……」
俺は、そっと組紐を握る。
(……あれは、誰だ?)
それを考えながら、もう一度目を閉じる。
橡様の腕の中で、ゆっくりと深い眠りに落ちていった。
※
翌朝。
「よう!お前また寝坊したな!」
宿の食堂で朝飯を食べていると、灯が俺の肩を叩いてきた。
「……寝坊じゃない。ちょっと考え事してただけだ」
「へぇ?そう言えば少し顔色が悪いような?そうでもないような?」
「……夢を見たんだ」
「ふぅん?どんな夢?」
灯が興味津々な顔で覗き込んでくる。
「……よく覚えてない。でも……」
あの夢は普通じゃない。きっと。
いや、今まで見てきた夢も普通ではないんだと思う。
どこかに、何かに繋がる、夢。
「……なんか、お前最近難しい顔ばっかしてるよな」
灯は呆れたように言いながら、飯を頬張る。
「……そうかもな」
俺はそう返しながら、隣で静かに食事をしている橡様の方をちらりと見た。
橡様は俺の視線に気づくと、微笑む。
「大丈夫。君は思い出せるよ」
俺はその言葉に、ゆっくりと頷いた。
(……俺は、思い出さなきゃならないんだ)
それが何かは分からないけれど、確かにそう思った。