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夜が更け、静寂があたりを包む。宿の一室はひっそりと静まり返っていた。

窓の外には人間界の月が浮かび、街の明かりがちらちらと揺れている。

橡様は隣で静かに横になり、安らかな寝息を立てていた。

けれど、俺はなかなか寝つけなかった。

旅の疲れもあるはずなのに、身体が落ち着かない。

思い出しそうな何かが喉の奥につっかえたまま、抜けてくれないのだ。


(俺の左目……逆鱗……)


汀様から聞いた話を思い返す。

逆鱗は本来、橡様の一部であり、彼の力の象徴とも言える大切なもの。

それを俺に与えてくれた。

しかし――それは、今俺の元にはない。

人間界にある、という話だった。

俺の左目を覆う空洞に、無意識に手を当てる。

この違和感に慣れきってしまっていたけれど、俺は本来、ここに瞳を持っていたのかもしれない。


(……何が、どうしてこうなった?)


考えても答えは出ない。

だが、橡様が言ったように、俺が思い出さなければならないことがあるのは確かだった。


ゆっくりと目を閉じる。

まどろみが俺を引き込み、意識がゆっくりと深い闇へと沈んでいった。



どこかで、水の流れる音がする。

静かな水面が揺れ、そこに映るのは――金色に輝く鱗だった。


「……お前は、誰だ?」


誰かの声がする。

低く、優しいけれど、どこか悲しげな声。

俺は、ゆっくりと顔を上げた。

目の前には、誰かが立っている。


……橡様?


そう思ったが、違う。

橡様によく似た姿をしているが、その気配は違う。

そして――彼の腕の中には、小さな金色の光があった。


「……この子は、お前のものだ」


男が静かに、俺に向かってそう言った。

俺のもの……?

それが何を意味するのか理解できないまま、俺はその光をじっと見つめる。

――その瞬間。


「やめろ!!!」


怒声が響いた。誰のものかわからない、その声。

視界が歪む。

強い衝撃が走り、何かが弾けるようにして俺の目の前から消え去った。



「――っ!!」


俺は飛び起きた。

息が荒く、心臓が激しく打っている。

額には冷たい汗が滲み、それが滴となって頬を伝った。

夢、か……?

けれど、ただの夢じゃない。

俺は、何かを思い出しかけていた。

大切な何か。


「芙蓉……?」


優しく、静かな声が耳に届いた。

気がつくと、橡様が隣に座り、心配そうに俺を覗き込んでいた。

金色の瞳が、月明かりを受けて静かに揺れている。


「……また、夢を見たんだね」


俺は息を整えながら、ゆっくりと頷いた。


「……はい。でも、よく覚えてなくて……」


頭を押さえながら、さっきの光景を思い出そうとする。


「……俺、誰かに……」


お前のもの。

確かに、そう言われた。

けれど、それが誰なのか――その記憶だけが靄がかかったように曖昧で掴めない。

橡様は何も言わず、静かに俺を抱き寄せた。


「……焦らなくていいよ」


優しく髪を撫でる仕草が、ひどく心地よかった。


「少しずつ、思い出していけばいい」


その言葉に、俺の胸がじんと温かくなる。


「……俺、思い出せますかね」

「うん。君なら、きっと。本当はね、このまま連れて帰ってしまいたい……」


俺は、そっと組紐を握る。


(……あれは、誰だ?)


それを考えながら、もう一度目を閉じる。

橡様の腕の中で、ゆっくりと深い眠りに落ちていった。



翌朝。


「よう!お前また寝坊したな!」


宿の食堂で朝飯を食べていると、灯が俺の肩を叩いてきた。


「……寝坊じゃない。ちょっと考え事してただけだ」


「へぇ?そう言えば少し顔色が悪いような?そうでもないような?」

「……夢を見たんだ」

「ふぅん?どんな夢?」


灯が興味津々な顔で覗き込んでくる。


「……よく覚えてない。でも……」


あの夢は普通じゃない。きっと。

いや、今まで見てきた夢も普通ではないんだと思う。

どこかに、何かに繋がる、夢。


「……なんか、お前最近難しい顔ばっかしてるよな」


灯は呆れたように言いながら、飯を頬張る。


「……そうかもな」


俺はそう返しながら、隣で静かに食事をしている橡様の方をちらりと見た。

橡様は俺の視線に気づくと、微笑む。


「大丈夫。君は思い出せるよ」


俺はその言葉に、ゆっくりと頷いた。


(……俺は、思い出さなきゃならないんだ)


それが何かは分からないけれど、確かにそう思った。

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