人間界の朝――空気がまるで別物みたいだった。
肺の奥まで澄んでいて、それだけで胸が痛くなるような。
もしかして、俺は……この空気を知っている?
そんな、言葉にならない引っかかりだけが、ずっと胸にあった。
屋台の暖簾が風に揺れ、魚の匂いが通りをかすめる。
行き交う人々は忙しそうで、それでもどこか温かい。
この生の気配、幽世にはなかったものだ。
「……へぇ」
前を歩く灯が、珍しげに目を丸くして、立ち並ぶ屋台の品を眺めていた。
「これこれ!人間の飯!いい匂いする!」
饅頭の屋台から立ち上る湯気に、あいつは鼻をひくひくさせていた。
「灯、耳。出てる」
俺が小声で注意すると、灯は「やべっ」と頭を押さえる。
「だってよ……こんなん食わずにいられっかよ。なあ、汀様!」
灯が駆け寄ると、後ろから来ていた汀様が微笑んだ。
「うん、食べたほうがいいよ。君、食い意地はってるほうが可愛い」
「えぇ~……!?」
俺が困っていると、隣から橡様が静かに笑って、灯に小銭を渡した。
「好きなだけどうぞ。旅の道中くらい、楽しまないとね」
「橡様、ほんと甘いな……」
俺がぽつりとつぶやくと、橡様はそっと俺の方を見て微笑んだ。
「君が笑ってくれるなら、僕はなんでもするよ」
そう言われて、胸が少しだけ熱くなる。こんなに優しい人が、どうして俺なんかに――いや、違う。
もう何度も聞いた、感じた。橡様は、本気なんだ。
街の賑わいの中、俺はふと立ち止まる。
何かが、胸に引っかかった。
「あれ……?」
人混みの向こう、赤い着物の子供の姿があった。
首元には、金色に光るもの――鱗のようにも見える、それ。
見覚えがある。いや、思い出せない。けれど、心の奥がざわめいた。
「芙蓉?」
橡様の声に肩がびくりと揺れる。
「ちょっと……見てきます」
気づけば俺の足は、自然とその子供の方へ向かっていた。
「あ!」
その子供がこっちを向いた。ぱっと花が咲くような笑顔で、手を振ってくる。
誰かに似ているようで似ていないような面差し。
「お兄ちゃんだよね! 前、市場で会ったよね!」
「……あ、うん……覚えてるよ」
どうしてだろう。懐かしいのに、名前も顔も知らない。
でも……知っている気がする。
「これ、また光ったの」
子供が首元の飾りを見せる。鱗の欠片が、わずかに淡く光っていた。
「これがね、『会いに行け』って言ったんだ」
「……君に、呼ばれて?」
「うん。だから、来たの」
そう言って笑うその顔に、胸が痛くなった。なんだ、この感情は。
「……芙蓉」
耳元で声がして、俺の肩に橡様の手が添えられる。
「……今は、まだ」
低い声が、どこか切なげで。俺はゆっくりと頷いた。
「また、会えるよね?」
子供が言ったその言葉が、胸の奥に突き刺さった。
※
その夜、眠りは浅く、夢のなかでまた声を聞いた。
赤ん坊の泣き声が、遠くから聞こえる。
俺は揺りかごの前に立っていた。
そこにいるのは――小さな命。
柔らかくて、温かそうで、でも……顔が見えない。
(俺は――誰かを、守っていた?)
手を伸ばしたその瞬間、誰かの声が叫ぶ。
「やめろ!!」
――視界が割れた。
「っ――はっ!」
目を開くと、橡様が俺の横で身を起こしていた。
「芙蓉、大丈夫?」
「夢を……また、見ました」
「……赤ん坊の?」
俺は頷く。額には汗が滲み、心臓がばくばくと鳴っていた。
「思い出せそうで、思い出せない。あの子の顔が、見えなくて……」
いや、そもそも……その“顔”を俺は知っているのか?
焦りばかりが胸の奥から湧き上がり呼吸が浅くなるようだった。
橡様が俺の髪を撫でる。その指先が、すごく優しくて、泣きそうになる。
「ゆっくりでいい。君の心が壊れないように、少しずつ」
俺は、こくりと頷いた。
目を閉じれば、あの子の声がまだ耳に残っている。
――また、会えるよね。
名前も、声も、覚えていないのに、懐かしさだけが確かに胸の奥に残っている。
俺は、あの子を……きっと、どこかで知っていた。