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街路樹の葉がかすかに揺れていた。

朝の光に白くけぶる路地。宿の前を通りすぎたその影に、灯がふと足を止める。


「……あれ、なんか綺麗な人……?」


ぽつりと漏らした言葉に、俺は、反射的に顔を上げた。

灯の視線の先。

そこに立っていたのは、淡い薄藤色の着物を纏った人物だった。

髪は黒く、艶やかに長く、そしてその顔――


(……知らない……でも、何か……)


喉の奥が、ひとりでに詰まる。

息がうまくできない。


「……大丈夫かい……?」


汀様が俺の横に立ち、声を潜めた。

けれどその瞳は、いつもと違う。青く澄んだその奥に、鋭く張り詰めた光がある。


俺は、わかっていた。

“この人”が、何かを握っているということを。


それは記憶ではなかった。

もっと深いところで、身体が、魂が反応している。


「……やっぱり、来たか」


汀様の声に、その人物がようやく口元をゆるめた。


「見つかってしまった……かな。君がまだこっちに残っていたのは、驚いたけれど」


その声は低くて、澄んでいて──なのに冷たい水に指を入れたような感触だけが残る。


俺は、この人を知らない。

なのに、目の奥がじんじんとする。


(俺は……この人に……)


いや、「俺」じゃない。

思い出しかけた過去――それが、ざわざわと背中を這い上がってくる。


「……知ってるのか?」


灯が俺の袖を軽く引く。

けれど、俺は答えられなかった。言葉にできなかった。


汀様が一歩、浅葱の前に出た。

その所作はいつになく鋭く、まるで刃を隠したような緊張を纏っている。


「浅葱。“あの子”を返しに来たのかい?それとも――“この子”をまた連れて行くつもりかい?」


淡く、柔らかな笑みを湛えたまま、その人は答えた。


「どちらも、少しずつ……だよ。だって私は、あの子のことをちゃんと『預かって』いたつもりだから」


その言葉に、鼓膜の奥が、チリ、と焼けるような痛みを覚えた。


「“預かっていた”? あの子……?」


思わず俺は一歩踏み出す。

誰を預けられた? 何を、預けられた?


その瞬間、浅葱、と呼ばれた人物が一歩こちらへと踏み出した。

香――微かに、花の香と血の気配が混ざったような匂いが鼻腔をくすぐった。


それは、夢で何度も嗅いだものと同じだった。


(あ……あの時……)


俺の中の何かが、ぎくりと跳ねる。

夜の夢に繰り返し現れた、赤子の声。目の前で閉ざされた扉。

そのすべてが、この男へと繋がっていく。


「……お前……」


俺がようやく発した声は、かすれていた。

それを遮るように、汀様が俺の前へと立った。


「待ちなさい。今すぐ詰め寄るのは悪手だよ。彼は、何もかもを見越してる」

「……けれど……!」

「君がまだ不安定なうちは、優しさに見せかけた毒がよく効く。思い出せることがあるなら、それを見せようとするだろう」


汀様は俺にだけ聞こえるように囁いた。

その横で、灯が目を丸くして浅葱を見ていた。


「……あの人、なんか、綺麗だけど、変な感じがする。身体の内側がざわざわする……」


灯が感じ取った“何か”。それは、俺にも届いていた。

この人は善意の仮面をつけて、何か大事なことを知っている。持っている。

俺の記憶の中にはまだ全貌はない。

けれど――取り戻さねばならない。


「君が“自分の目”を取り戻したいのなら、来なさい」


そいつはそう言い残して、通りの奥へと歩き出した。

その後ろ姿に、俺は強く歯を食いしばった。


「……俺、絶対に――……」


そう呟いた俺の手に、橡様がそっと手を重ねた。


「大丈夫。僕も一緒にいる。……君が全てを取り戻すまで、離れないよ」


その声に、俺はようやく息を整える。

後ろで、汀様が目を細めて、俺と橡様の背を見つめていた。


「さあ、いよいよだね……」


汀様は扇を閉じ、小さく息をついた。


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