朝露がまだ残る庭を、淡い日差しがそっと照らしていた。
俺たちは浅葱に案内された屋敷の離れに案内されていた。
俺と灯は到着した頃、随分と警戒していたけど、汀様も橡様も大丈夫だと言うので、ひとまずは落ち着いている。
離れの縁側に腰を下ろして、俺はぼんやりと庭を眺めていた。
目の前では、例の子供――あの子が、一人で草の間を跳ね回っていた。
虫を追いかけているのか、それとも葉っぱの影に小さな発見でもあったのか。
笑い声が風に乗って届くたび、胸がざわついた。
あの夢を、思い出す。
泣き声。
伸ばした手。
届かない感触。
そこにいるのに、触れられない。
目の前にいるのに、名前すら呼べない。
そんな距離が、今も俺を縛っていた。
「……なんで声かけないんだ?」
背後から、灯の声がした。
振り返ると、縁側の端に腰を下ろして、膝を抱えている。
いつもの気だるげな目つき。けれどその奥には、ほんの少しの哀しさが宿っていた。
「……わからない」
言葉を絞り出すように答える。
「ただ……怖いんだ」
「何が?」
「……自分でも、よくわからない。けど……話しかけて、何かが壊れてしまいそうで」
それはきっと、期待しているからだ。
もしも自分の予感が正しくて、あの子が――とんでもない真実を連れていたら。
それがわかることで、俺は“また”失うんじゃないか。
自分の弱さを、また知ることになるんじゃないか。
そんな漠然とした怖さが、喉に棘のように引っかかっていた。
「……らしくねぇな」
灯が小さくつぶやいた。
「そりゃ、あの子が誰かなんて、俺にはわかんねーけどさ。お前、いつも人のことになると飛び込んでただろ? なのに、あの子のときだけ見てるだけとか……へんだろ」
その言葉は、耳に刺さるというより、心の奥にしんと沈んでいった。
そのときだった。
背後から、ふわりと気配が寄せてくる。
「……見てるだけじゃ、満たされないよ」
声の主は、橡様だった。
灯が静かに立ち上がってその場を離れたあと、代わりに橡様が俺の隣に腰を下ろした。
何も言わず、俺の背をそっと撫でる手。
そのぬくもりが、今の俺にはただ静かに沁みた。
「……名前も、知らないんですよ、俺……あの子の」
苦笑交じりにこぼすと、橡様はほんの少しだけ、視線を庭に移す。
「名前を与えたのは君じゃない。でも、君がその子の最初の“願い”だった」
「……願い……?」
「そう。まだ声も持たぬ頃。魂が、願っていた。『会いたい』ってね。君に」
言葉が、うまく返せなかった。
胸の奥に何かが溜まっていく。
それは懺悔でもなく、確信でもなく、ただ――切なさだった。
その時は、走り回っていた子が立ち止まりこちらを見る。
(あれ……?あの子の、目……)
子供の目の色が、今までと違って見える。
山吹の花を薄めたような──淡い、金色。
誰かの瞳を彷彿させる、その色。
「え……?」
くらり、と意識が揺らいだ。
額を手で抑えると、
「どうしたの?大丈夫かい……?」
心配そうに俺を覗き込んでくる橡様。
そして、その目の色。
山吹の花を薄めたような──……。
「同じ……?」
「うん……?」
じっと橡様を見つめる俺に橡様は首を傾げた時だった。
子供がいつの間にか俺達のすぐそばまで来て、上を見上げた。
その顔には、何のためらいもない笑顔が浮かんでいた。
「ねえ、お兄ちゃんの名前、教えてよ!」
その瞬間、呼吸が止まった。
胸の奥がざわつく。
足元の地面がふっと傾くような錯覚。
鼓動がひとつ、遅れて鳴る。
――お兄ちゃんの名前。
(俺の……名前……?)
自分でも、知らないはずだった。
ずっと、“芙蓉”と呼ばれてきて、そこに疑いもなかった。
けれど。
(……違う)
何かが違うと、身体が叫んでいた。
脳の奥で、遠くに押し込まれていた扉が、ゆっくりと軋みを上げて開いていく。
そして――
『長だよ、お前の名前は』
誰かの声が、記憶の底から響いた。
優しく、けれど確かに、俺に教えてくれた声。
喉の奥が熱くなる。
言葉にならない何かが、押し寄せる。
「……なが」
唇からこぼれたその響きに、自分でもはっとした。
子供が首をかしげた。
「ん? なが……?」
「……俺の、名前……は“長”……」
ようやく、それを自分の言葉で言えた瞬間、視界がわずかに滲んだ。
まるで、長い間捨てられていた自分の影を拾い上げたみたいだった。
「そっかぁ、長くん!」
子供がにこにこと笑いながら呼んでくれる。
その声に、何かがほどけた。
橡様がすっと俺の肩に手を置く。
その手のひらが温かい。
「……思い出せたんだね」
「……一部だけ、でも……確かに、自分の名前を」
名前。
それは、ただの呼び名なんかじゃない。
ここに“自分”がいたという証明。
「ありがとう、名前を……呼んでくれて」
子供はくすくす笑っていた。
そして、不思議そうに俺を見上げる。
「呼んだの、これだよ。お兄ちゃんに会いたかったんだって」
首にかかっているものを子供は楽しそうに見せた。
橡様が静かに目を伏せる。
(ああ、そうか……それがきっと……)
逆鱗だ。
俺の左目の奥が、じん、と疼いた。
まるで『思い出せ』と命じるように。