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まだ朝靄の残る庭は静かで、葉の擦れる音が遠くから微かに聞こえていた。

屋敷の外れ――小道に続く石畳の脇を、汀と灯が並んで歩いていた。

灯は両手を着物の袖に突っ込んだまま、ちらちらと汀の横顔を見ていおり、汀は扇をゆるやかに仰ぎながら、澄ました顔で空を見上げている。


「……この空気、変わってきたね」


不意に、汀がそう言った。


「……変わってきた?」

「うん。人の気配、というのは案外繊細で、揺れやすい。芙蓉が……ようやく“戻る”決意をしたから、周囲の空気もそれを追って動き出してるんだ」

「……あいつ、何か思い出したのか?」

「少しだけね。けれど、大切な一歩だよ」


灯は口をつぐんで、小さく草を踏んだ。湿った葉の感触が靴底から伝わる。


「なあ、汀様。……浅葱って、どんなやつなんだ?」


そう問うと、汀はふと目を伏せ、珍しく扇を閉じた。


「美しい人さ。彼はね、とても、美しいよ。でも、ずるい。酷くね」

「あいつに……ひどいことしたのか」

「……それを判断するのは私たちじゃない。痛みや赦しというのは、当事者の中にしか存在しないからね」


灯は目を伏せて、小さくつぶやいた。


「俺、芙蓉のこと、守りてぇなって思った」


汀は笑った。

思わず口元を緩めたそれは、いつもの上品なものではなく、どこか幼い弟子の成長を見守るような笑みだった。


「その気持ちが、あの子を守る盾になる。……それで充分だよ、灯くん」



縁側に座り、俺は庭をぼんやりと眺めていた。


手の中には、あの逆鱗がある。

あの子が首に下げていたものを、短い間だけ預かっている。

ひんやりとした感触。

だけど今は、それがほんの少し、ぬるく思えた。


庭の中を、あの子が走っていた。蝶を追いかけている。笑っていた。

その姿を見ているだけで、胸の奥が何度もきゅっと締めつけられる。


届かない夢の断片のようで。

触れようとして、届かない過去のようで。


「……いよいよだね」


後ろから、橡様の声がした。

振り向かなくても分かる。優しい気配が、すぐ隣に腰を下ろした。


「……わかってたんですよ、ね?」

「そうだね……すまない。でも、君が全てを取り戻したい……そう思わなければ駄目だった」


橡様の手が、そっと俺の背を撫でる。その動きだけで、胸が苦しくなった。

いろいろな思いが浮かんでくる。

その中には橡様を責めてしまいそうなのもあった。

でも、きっと……橡様は橡様でたくさん苦しんだのだと、思う。


「怖いです、橡様。……あの人と向き合うのが」

「そうだね……でも大丈夫、僕は必ず君を守る」


そう言われて、逆鱗をぎゅっと握りしめた。

視線を戻すと、子供がふとこちらに気づいたようで、駆けてくる。


「長くん、あのね!」


驚いて目を上げる。子供はぴたりと立ち止まり、まっすぐ俺を見て笑った。


「ちがうや、……“おかあさん”だね」


その一言に、思考が真っ白になった。


「え……?」

「なんとなくそう思った。そう、きっとそう」


笑って言うその顔に、目が離せなかった。

この子は何気なく言っているのかもしれない。

足元が、ふっと傾いた気がした。


「……おいで」


掠れる声で言うと、子供が嬉しそうに駆け寄ってきて、俺の胸に飛び込んだ。

抱きしめた瞬間、小さな体温が胸に染み込んでくるようだった。


俺の中で何かが、音もなくほどけていく。


「……俺が」


呟きながら、目を伏せた。

この子を――奪われた。あの時の痛みが、また蘇りかけてくる。

でも今は、それでも。


抱きしめていたい。

そう思った。


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