まだ朝靄の残る庭は静かで、葉の擦れる音が遠くから微かに聞こえていた。
屋敷の外れ――小道に続く石畳の脇を、汀と灯が並んで歩いていた。
灯は両手を着物の袖に突っ込んだまま、ちらちらと汀の横顔を見ていおり、汀は扇をゆるやかに仰ぎながら、澄ました顔で空を見上げている。
「……この空気、変わってきたね」
不意に、汀がそう言った。
「……変わってきた?」
「うん。人の気配、というのは案外繊細で、揺れやすい。芙蓉が……ようやく“戻る”決意をしたから、周囲の空気もそれを追って動き出してるんだ」
「……あいつ、何か思い出したのか?」
「少しだけね。けれど、大切な一歩だよ」
灯は口をつぐんで、小さく草を踏んだ。湿った葉の感触が靴底から伝わる。
「なあ、汀様。……浅葱って、どんなやつなんだ?」
そう問うと、汀はふと目を伏せ、珍しく扇を閉じた。
「美しい人さ。彼はね、とても、美しいよ。でも、ずるい。酷くね」
「あいつに……ひどいことしたのか」
「……それを判断するのは私たちじゃない。痛みや赦しというのは、当事者の中にしか存在しないからね」
灯は目を伏せて、小さくつぶやいた。
「俺、芙蓉のこと、守りてぇなって思った」
汀は笑った。
思わず口元を緩めたそれは、いつもの上品なものではなく、どこか幼い弟子の成長を見守るような笑みだった。
「その気持ちが、あの子を守る盾になる。……それで充分だよ、灯くん」
*
縁側に座り、俺は庭をぼんやりと眺めていた。
手の中には、あの逆鱗がある。
あの子が首に下げていたものを、短い間だけ預かっている。
ひんやりとした感触。
だけど今は、それがほんの少し、ぬるく思えた。
庭の中を、あの子が走っていた。蝶を追いかけている。笑っていた。
その姿を見ているだけで、胸の奥が何度もきゅっと締めつけられる。
届かない夢の断片のようで。
触れようとして、届かない過去のようで。
「……いよいよだね」
後ろから、橡様の声がした。
振り向かなくても分かる。優しい気配が、すぐ隣に腰を下ろした。
「……わかってたんですよ、ね?」
「そうだね……すまない。でも、君が全てを取り戻したい……そう思わなければ駄目だった」
橡様の手が、そっと俺の背を撫でる。その動きだけで、胸が苦しくなった。
いろいろな思いが浮かんでくる。
その中には橡様を責めてしまいそうなのもあった。
でも、きっと……橡様は橡様でたくさん苦しんだのだと、思う。
「怖いです、橡様。……あの人と向き合うのが」
「そうだね……でも大丈夫、僕は必ず君を守る」
そう言われて、逆鱗をぎゅっと握りしめた。
視線を戻すと、子供がふとこちらに気づいたようで、駆けてくる。
「長くん、あのね!」
驚いて目を上げる。子供はぴたりと立ち止まり、まっすぐ俺を見て笑った。
「ちがうや、……“おかあさん”だね」
その一言に、思考が真っ白になった。
「え……?」
「なんとなくそう思った。そう、きっとそう」
笑って言うその顔に、目が離せなかった。
この子は何気なく言っているのかもしれない。
足元が、ふっと傾いた気がした。
「……おいで」
掠れる声で言うと、子供が嬉しそうに駆け寄ってきて、俺の胸に飛び込んだ。
抱きしめた瞬間、小さな体温が胸に染み込んでくるようだった。
俺の中で何かが、音もなくほどけていく。
「……俺が」
呟きながら、目を伏せた。
この子を――奪われた。あの時の痛みが、また蘇りかけてくる。
でも今は、それでも。
抱きしめていたい。
そう思った。