子供の体温がまだ胸の奥に残っている。
細い腕で抱きしめ返された瞬間、俺の鼓動はひときわ大きな水音を立てた。
その余韻を噛み締めながら、廊下をゆっくり進む。手の中には逆鱗。冷えた鱗が脈を打つように震えていた。
廊下の角を折れると、橡様が壁際で佇んでいた。
やや俯いた横顔は穏やかに見える。だが近づくと、指先が僅かに震えているのが分かる。
「……怒っているのですか」
思わず漏れた問いに、橡様はゆっくり顔を上げた。
金色の瞳は澄んだまま、けれど底の方で火の粉が散っている。
「怒っているよ。でも君が赦しを願うなら、刃は鞘に納める。……それが、僕の我慢の限界を超えないかどうかは、彼の出方次第だけれどね」
最後の一語は低く張りがあった。
廊下に積もる静けさが、紙一重で破れる前の薄氷のようにきしむ。
俺は思い切って橡様の手を取った。先刻より熱い――感情を閉じ込めるために、燃え盛るものを内側へ押し込んでいる熱だ。
「……子供は灯と汀様に預けてきました。今は、俺たちだけで向き合います」
橡様は小さく頷き、指を絡め返してくる。
「君が震えている」
「橡様も、です」
ふっと笑みが零れた。けれど互いの指は強く結ばれたまま、離れない。
※
母屋の廊下は古い香木の匂いが濃く、足裏に伝わる床のしなりまでが緊張を増幅させる。
行き止まりの正面、漆塗りの扉。
朱の塗縁には蔦の意匠。
その中央で銀の把手がひそかに光った。
ここから先に浅葱がいる。
奪われた夜の、血と獣の咆哮が脳裏をかすめ、膝裏がわずかに強張る。
――でも、もう逃げない。逃がさない。
橡様が俺より一歩前で止まり、握った手をそっと離した。
代わりに背へ回った掌が、肩甲骨の上で静かに圧をくれる。
「一緒に入ろう」
その声に頷き、把手へ手を伸ばす。
指先が触れた途端、扉の向こうで微かな風が走った。誰かが気配を動かす――気取られる前に、思い切って引き戸を払う。
きしむ音と共に扉が開く。
室内は薄闇。障子越しの朝光が一点、床を淡く照らしていた。
その光の中に、長い髪を緩やかに束ねた人影が立つ。
髪は灰紫、肌は夜明けの花弁のような淡さ。
衣は麻の
浅葱――花の神。
彼はゆっくりこちらへ顔を向けた。薄い唇が優美な弧を描く。
それは微笑とも冷笑ともつかぬ曲線。けれど瞳だけが妙に澄み、奥底で狂気が藍の火を灯している。
「……来たのだね。長。その隣に“私の龍”まで連れて」
浅葱の声は囁くようで、しかし刃を含んでいた。
橡様の背後で風が震えた――鎮められているが、怒気は確かに熱を孕んで膨張する。
俺は一歩踏み出し、胸の前で逆鱗を握った。
鱗が温かい。橡様の血と力が封じられた証。
「返してもらいに来ました」
喉が焼けるほど乾いているのに、声は静かに出た。
浅葱が小首を傾げ、彩の薄い瞳を細める。
「返す? ああ、君のお眼々か。あるいは――君が“置き去り”にした小さな命か」
気道が絞られた。
橡様の掌の圧が背に加わり、俺の膝が折れそうになるのを支えてくれる。
「置き去りにした? 俺は……奪われたんだ!」
初めて声が震えた。
浅葱はまるで夜に咲く桔梗のように儚い笑みを深め、袖を払う。
床の奥、几帳の陰がふわりと揺れた。
そこに小さな影。──胸が軋む。子供が障子の隙から顔を覗かせ、俺と目が合った。
きっと、抜け出して来てしまったのだろう。
浅葱が静かに手を伸ばす。
その手は、“おいで”と昔から馴染んだ仕草のようだった。
子供は笑顔になり、何の躊躇もなく走っていく。
俺の腕の中にいたはずの、あの子が。
それが“当然”であるかのように――浅葱の腕の中へ飛び込んだ。
胸の奥に、冷たい何かが流れ込んだ気がした。
取り戻したばかりの“ぬくもり”が、手のひらから抜けていく錯覚。
「さあ、長。取り戻せるものならお取りなさい。けれど、彼が“私”を選ぶなら──君の神嫁としての過ちは、ここで終わる」
その言葉に、背後の橡様の気配が爆ぜた。
視界の端で、金の瞳が夜より深い光を孕む。
板間の木目が震え、空気が熱を帯びる。
俺は思わず橡様の袖を掴んだ。
「橡様、駄目です……!」
半歩、浅葱が前に出る。
空気が切り裂かれる寸前で、子供の細い声が震える。
「やめて……こわい……!」
その悲鳴が、張りつめた気配を寸断した。
橡様が息を呑む。怒りを鎖で縛り直すように、肩が小さく震えた。
俺は唇を結び直し、子供に視線を向けて――静かに言葉を落とす。
「怖がらせてごめん。――いい子だ、ちょっと待っていて」
子供の金色の瞳が揺れる。
心臓が軋む音が耳朶を打った。
その瞬間、浅葱の背後で屏風の唐花が風に浮き、香の甘い匂いが濃くなった。
対峙の刃は、なお鞘からわずかに顔を覗かせたまま。
ここからが本当の交渉だ。
呼吸を整え、胸の逆鱗を握り締める。
俺は、橡様の怒りと自分の恐怖を背負って、一歩浅葱に近づいた――。