浅葱が子供を抱き上げる姿を、俺はただ見つめていた。
その手はあまりにも自然で、どこか慈しみに満ちていて――なのに、胸の奥が冷えていく。
「……それが、あんたの答えなんですか」
やっとの思いで、言葉を吐き出す。
浅葱は振り返りもしない。
ただ腕の中の子供を、もう片方の手で軽くあやしながら、静かに口を開いた。
「答え……? そんなもの、とうに終わっているよ。君がすべてを忘れた時点で、私と君の間に“対話”の余地などなくなった。あるとすれば――これは“処理”だ」
「処理……?」
喉の奥で引っかかったその言葉に、橡様が微かに身じろぎする。
その一歩先、彼の気配が膨張した。
怒りの熱が、部屋の空気をじわじわと灼いていくようだった。
けれど浅葱は、あくまで冷静だった。
いや――“冷たく”笑っていた。
「私にとって、彼は“正しさ”だった。橡。あなたは私を拒み、長を選んだ。美しかったよ、ふたりとも。……まるで神話のようだった。私だけが、舞台の外で、立ち尽くしていた」
その声音に嘘はない。ただ、狂気が混じっていた。
ひどく整った、理屈の通った狂気だ。
「だから、この子は……君たちの“物語”から、私が引き取った。美しく終わる前に、私はその結末を、横取りした」
「……それが、正しいと?」
俺の声は震えていなかった。
怒りも、恐れも――不思議と、今はない。
ただ、問いを立てたかった。
それに対して、浅葱は首をすこしだけ傾けた。
「さあ?正しさなど、花の咲き方と同じだ。どこに芽吹き、どう開くか……それは誰にも決められない。君たちが“善”で、私が“悪”だというのなら、それもまた――ひとつの物語に過ぎない」
子供が、小さくきょとんとした目で俺を見ていた。
その目に怯えはない。
ただ、どちらにもまだ答えを出していない、純粋な迷いがある。
「……その子は、選んでいない」
俺は、はっきりと言った。
「どちらが本当の“家族”か、どちらが愛しているか。そんなものを、子供に決めさせるのは間違ってる」
「それでも、この子は私の手を取った」
「違う。あんたしか知らなかったからだ。あんたが連れてきて、あんたしかいなかった。ただ、それだけのことだ」
沈黙が落ちた。
橡様の気配が静かに深く沈む。
浅葱の目が、ほんの一瞬、橡様のほうに向けられる。
「……あなたは、何も言わないのですね」
「言えば君が壊れるからだ」
橡様の声は静かだった。
けれど、それは血の温度で研がれた刃のようで――俺の背筋を凍らせるほどに、冷たく美しかった。
「君が長の目を奪った時から、僕の中では“終わっていた”。……でも、君はまだ“終わらせて”くれなかった」
浅葱は肩を揺らして笑った。
その笑いは、ひどく空虚だった。
「終わりなんて、誰が決める? 私はまだ終わってなどいない。終われるものか。あなたたちが愛し合う限り、私の終わりは、どこにも来ない」
その言葉に、俺は踏み出した。
「……じゃあ、終わらせに来たよ。俺が」
浅葱の目が、はじめて明確に俺を見据えた。
「俺は、その子の母だ。俺が、この身体の中で育てた。奪われた命を、奪い返しに来た。俺は逃げない」
その瞬間、子供が小さく身をよじった。
浅葱の腕の中から、そっと抜けるように、こちらに近づいてくる。
「……おかあさん……?」
小さな声に、心臓がぎゅっと締め付けられる。
「……うん。俺が“おかあさん”だよ」
俺がしゃがみ込むと、子供が目を潤ませて、そっと手を伸ばしてきた。
その小さな掌が、俺の頬に触れる。
浅葱が、立ち尽くしたまま動けずにいた。
「……なぜ、私では駄目なのです」
その問いには、もはや答える必要もなかった。
子供が、俺にしがみつく。
「……長くんは、おかあさん、なんだ」
その言葉に、俺の目から涙が零れた。
浅葱は一歩も動かなかった。
けれど、その目から――はじめて、孤独という名の雫が滲んでいた。