子供の小さな体温が、胸に残っている。
背後からそっと支える橡様の掌もまた、静かな熱を宿していた。
それは、共に抱える痛みの温度だった。
「長……」
橡様の声は低く、震えるように耳を打つ。
目を閉じ、吸い込んだ空気は甘く、どこか花の香が濃すぎた。まるで、この空間ごと、浅葱という存在に浸食されているようだった。
そんな俺たちの姿を、浅葱は微笑みながら見下ろしていた。
「……やはり、そうか。やっぱりあなたは、その人間を守るのですね。最初から最後まで」
その微笑みが、ふいにきしむ。
空気が一瞬にして凍る。
そこに潜んでいたのは、激情だった。
浅葱の指先が、ひとひら、空へ舞わせるように動いた。
途端に、部屋の空気が変わる。
どこかで軋む音。障子の隙間から差す光が花弁のように滲み、視界に花の幻影が浮かんだ。
「私が……どれほどあなたを望んだか、あなたは知っているはずなのに……」
その囁きと共に、床が脈を打つ。
絹のように淡く、美しい“花の呪”が空間を包み込みはじめる。
屏風の唐花がふわりと舞う。
実体を持たないはずの花が、まるで血を滲ませたように、空を染めていた。
「それでも……あなたは、長を選ぶのですね」
浅葱の瞳は澄んでいた。
だが、その奥には狂気すら超えた、切実な孤独がひたひたと滲んでいた。
「橡様!」
思わず俺は声を上げた。
次の瞬間、橡様の周囲に結界の波紋が広がる。
刹那、花の呪と橡の神気がぶつかり合い、部屋の温度が下がった。
床が震え、空気が軋む。
「駄目です……!橡様、駄目です……!」
橡様の背に、俺は手を添える。
その肩の硬さに、怒りがどれほど積もっていたのかを知った。
「……あの人も、誰かを求めてしまっただけなんです。間違った形で」
「その代償を君が支払ったんだ……!左目を失い、子を奪われ……!僕が、どれだけ……!」
「だからこそ、ここで終わらせたい」
俺の声は震えていたけれど、想いはまっすぐだった。
橡様は瞳を伏せ、深く息を吐く。
「……分かった」
結界がひとつ、静かに沈む。
けれどその下に、なお熱は残っていた。俺が手を離せば、すぐに噴き出すほどに。
「やめて……!」
その声が割り込んだのは、そのときだった。
子供が小さく体を震わせながら首を振る。
その顔には、戸惑いと怯えと、何より“理解”が浮かんでいた。
「浅葱……こわい……」
そのひとことが、浅葱の呪を断ち切った。
花の幻影が一斉に崩れ落ちる。
幻の唐花は霧のように揺れ、ふっと溶けて消えた。
「……私が、こわい……?」
浅葱が呆然と呟く。
その声はあまりにも小さく、かすれていた。
腕の中からすり抜けるように、子供が動く。
誰も止められなかった。
ふいに俺の手からも離れ、まっすぐ浅葱の方へ駆けていく。
「あっ、待――」
俺の言葉を遮るように、子供は浅葱の胸元へ飛び込んだ。
その小さな体が、浅葱の着衣をぎゅっと掴む。
「浅葱、こわい。でも……だいすき」
浅葱が目を見開く。
驚きと動揺、そして……哀しみが一度に押し寄せたように、顔がゆっくりと歪んだ。
「……そばにいてくれたから……浅葱、だいすき……」
その一言に、浅葱の指が震えた。
抱きしめ返すこともできず、ただそこに立ち尽くして――その小さな体を、見つめていた。
沈黙の中、花の香がふたたび、ただの花の香りへと戻っていく。
浅葱の瞳が伏せられる。頬に、静かに涙が落ちた。