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浅葱は、子供を腕に抱いたまま動かなかった。


細い指先は、あの子の小さな背をそっと包み込んでいるのに、どこか不器用で……震えていた。


俺はゆっくりと近づいた。橡様の気配が背後に寄り添ってくれる。

膝をつき、あの子と同じ目線になった。


「ねぇ」


呼びかけると、金色の瞳が俺を見た。驚

いたような、けれどすぐにゆっくりと、まぶたが動いて、俺の顔をしっかりと見つめてくれた。


「……どうしたい?」


問いかける声が震えていなかったのは、自分でも驚いた。

俺の言葉に、あの子は浅葱の袖をぎゅっと握りしめた。


小さな口が、少し開いて、ためらうように閉じて――そして、ぽつりと呟いた。


「……浅葱……だいすきだから、ここにいる」


浅葱の肩が、かすかに揺れた。

けれど、子は続けた。


「でも……おかあさんと、おとうさんにも、いてほしい……」


胸の奥が締めつけられた。


それは、誰の顔も見ずに言った言葉だったけれど、確かに俺たちの心に届いた。


浅葱の目が、大きく見開かれる。

そして――


「……そっか」


俺は笑った。


自然に、静かに、なんの怒りも悲しみも混じらず、ただ微笑んで言葉が出てきた。


「……そっか。なら、決まりだな」


その言葉を聞いた瞬間だった。


浅葱の肩が、ふるりと揺れた。


ぎゅっと抱きしめていたはずの子供の体が、わずかに傾いたのは、浅葱の手から力が抜けたからだった。


「……なぜ、私には……」


浅葱の声が、まるで搾り出すように響いた。


「なぜ、それを私が言えなかったのでしょうね……」


その問いは、俺じゃなくて、自分自身に向けられているようだった。


浅葱の頬を、幾つも涙が伝っていく。


崩れ落ちるように、膝をついた彼は、子供を胸に抱いたまま、その場にそっと座り込んだ。

俺は立ち上がる。


すぐ後ろには、ずっと黙って見守っていた橡様がいた。

その金色の瞳が、浅葱を見据えていた。


「……それでも、君は一線を越えた」


低く、けれどどこまでも静かな声だった。

浅葱の肩がぴくりと揺れる。


「左目を奪い、子を連れ去り……長から、君自身の執着の代償を引き出した」


橡様の声には、怒りも含まれている。

けれど、それ以上に強かったのは――冷静な“神”としての眼差しだった。


だけど、次の言葉には違うものがあった。


「……でも」


橡様は、そっと目を伏せる。


「この子が、君の元にいることを望むなら。僕はそれを……止めないよ」


その言葉に、浅葱の息が詰まったようだった。

子供が、浅葱の腕の中でゆっくりと顔を上げる。

涙に濡れた浅葱の頬に、小さな指がそっと触れた。


「ないてるの……へんなの。わらって、浅葱」


その声に、橡様がふっと笑った。いつもの、優しい笑みだった。


「だったらさ」


俺は浅葱とあの子を見下ろしながら、柔らかく言った。


「俺たちが、通えばいい」


静寂が落ちる。


「……通う?」


浅葱が顔を上げる。

その目は赤く、けれど、深く沈んでいたものが、わずかにほどけていた。


「この子がここで過ごしたいなら、俺も橡様も、それを邪魔はしない。でも……たまに会いに来るよ。しょっちゅう来るかも。……どうかな?」


子供が小さく「うん」と頷く。

その声が合図のように、橡様が静かに言った。


「それが、この子の選んだ家族の形だというのなら……僕もそれでいいよ」


浅葱はしばらく、何も言わずに俯いていた。

そして――ゆっくりと、子供をもう一度抱きしめた。


「……あなたたちは、馬鹿なのですか」


浅葱は顔を伏せたまま、ぽろぽろと涙を零しながら言葉を続けた。


「お人よしがすぎる。そんなんだから……私みたいなのに、つけこまれるんです」


その肩が、小さく震える。

俺と橡様は黙ってそれを見守った。

浅葱の手の中で、あの子がそっと顔を寄せる。

そのぬくもりに、ようやく浅葱が、強く抱きしめ返すことができた。

小さな、小さな声で。

それでも確かに、彼は言った。


「……ありがとう」



――花の神の、孤独の終わりは、ようやくそこに訪れた。


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