朝の光が、庭に満ちていた。
障子を透かして差し込む陽が、淡く草木を照らし、風にそよぐ葉擦れの音がどこか懐かしい。
縁側に座った俺は、手のひらに残るぬくもりをぼんやりと感じていた。
浅葱と対峙して、一晩が明けた。
様々に思うところはあっても、あの判断に後悔はない。
あの子が望むように、幸せになれるように……それが一番だ。
――なのに、胸の奥が、どこか遠くに引っ張られる。
静かだった。目を閉じると、何かがほどける音がした。
一瞬だった。
香の匂いと陽光に包まれたとたん、脳裏を一気に光が駆け抜けた。
——白い霧の中、橡様がいた。俺の手を取って、神域の奥へと導いた日。
「君が……僕のお嫁さんになる人だね」
その囁きに、恐れと――少しの、熱が宿っていた。
橡様は常に近くにいた。見張るように、守るように、抱きしめるように。
嫉妬深くて、独占的で、それなのに触れる指はいつも優しかった。
それらすべてが、胸の奥に熱を持ってよみがえっていく。
妊娠に気づいたときの戸惑い。
子が胎の中で動いた瞬間思い出す。
そうだ。俺は、忘れていた。
いや、封じられていたのだと思う。
それが、今。
「ああ……全部、思い出した……」
俺は思わず、ぽつりと声に出していた。
すると、
「お、やっと寝ぼけが覚めたか?」
背後から、ひょうきんな声がかかった。
振り返ると、灯が縁側にひょいと腰を下ろしていた。
相変わらず着流しはゆるく、耳と尻尾が風に揺れている。
「なんかさ、色々と聞いた。うん、でもさ……お前はお前じゃん?芙蓉でも長でもさ」
「……灯」
「俺、何が出来るかなんかわかんねーけど、近くにいるからさ」
灯は軽く手を振り、片目を細めた。
その後ろから、静かな足音。
「やあ、長くん」
現れたのは汀様だった。
薄墨色の衣に身を包み、穏やかな微笑みを浮かべている。
橡様と同じ神性を宿した瞳が、真っ直ぐこちらを見つめていた。
「無事でなによりだ。あの子も……元気そうだね」
汀様の視線の先には、庭の片隅で花を摘んでいるあの子の姿があった。浅葱に手を引かれ、花の名を一つひとつ教わっている。
俺は小さく頷き、唇を引き結んだ。
「心配をかけてすみません。……汀様も、ずっと見ててくれたんですね」
「君の龍神様が放っておいたら世界も壊しかねなかったからねぇ」
汀様が苦笑を漏らす。
「まあ、でも……有終之美ってやつかな?あの橡が浅葱を許すとは思わなかったが……さすが、神嫁だね。長くん」
「……でもさ、実際、どうすんの?」
縁側に寝そべりながら、灯が問いを投げた。尻尾が風に乗ってふわりと揺れる。
「このままここに居座るのか? それとも神域に戻る? まさかの素馨さんとこに戻る?」
からかい混じりの口調に、俺は肩をすくめた。
「まさか。でも素馨さんには挨拶しにいかないととは思ってる」
「ふうん。また玖珂が騒ぐな。しかし、さ」
灯は横目で浅葱と子供のいる庭の方を眺めた。
「あの花の神、ほんとは優しいんだな」
「……そうなんだと思う。だから、あの子はここに残ると……」
俺の呟きに、隣の汀様がゆっくり頷いた。
「君の子は、自分の居場所を自分で選んだ。――その意思は、神よりも重い。そうだろう?橡」
その言葉に、俺は顔を上げた。
そこにはいつの間にか、橡様がいた。
橡様の瞳は柔らかかった。
昨日の怒りがすっかり溶けたわけじゃない。けれど、それ以上に深い――未来への覚悟があった。
「そんな君たちに、私から、ひとつ提案を」
汀が膝を立て、庭に目をやった。
「この場所に、庵を残そう。花を守る神のもとに、神嫁とその夫が通う。かつてなかった形式だが、幽世にとって悪くない。なにより……誰の命も、損なわずに済む」
橡様はしばし沈黙したのち、頷いた。
「そうだね……長くんはどうだい?」
俺の顔を覗き込む橡様に、頷く。
「俺もそれでいいです。あの子に会えるのは、嬉しい」
灯があくび混じりに笑う。
「庵といっても、ちゃんと手入れされなきゃ意味ねえぞ。水回りとか寝床とか、俺に任せとけ。猫又の知恵、なめんなよ?」
「やる気満々だな……灯」
「そりゃあなあ。……長が元気に笑ってるほうが、俺はうれしいし」
その言葉に、不意を突かれたように息が詰まった。
灯は照れ隠しのようにそっぽを向く。
「ほら、またすぐ泣くんだから。水の神の旦那に会わせる顔がなくなるだろ」
「……ありがとな、灯」
声が震えないように、深く息を吸って笑った。
子供が、庭の地面に小枝で何かを描いているのが見えた。
俺たちを振り返り、手を振りながら笑う。
その隣で、浅葱が目を伏せたまま微笑んでいる。
「橡様」
俺は振り返る。
「俺は、また神域に戻ります。……でも、ここにも来る。“神嫁”としてだけじゃなく、“おかあさん”としても」
橡様はゆっくりと歩み寄り、俺の手を取った。
「君の選んだすべてを、僕は祝福する。――だって、僕は、君を選んだから」
指が絡み合い、手のひらが熱を帯びる。
その温もりの中に、確かにあった。
失ったものと、取り戻したもの、そして――これから積み重ねていくもの。
庭に風が吹いた。
花の香がふたたび、ふわりと舞い上がった。