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終ノ章(前編)

神域の空気は、どこか懐かしく澄んでいた。


屋敷の門をくぐった途端、空が近くなったような錯覚に包まれる。

薄い雲が流れ、風が結界を撫でる音が耳に心地よい。


「長様ァァァァアッ!!」


耳をつんざくような叫びとともに、神使たちが群がってきた。

羽の音、足音、鈴の音――あらゆる生き物の祝祭のようだった。


白羽の鳥が肩にとまり、狐が尾を振りながら足元にすり寄る。

小さな龍が頭の上に乗り、「きゅぅ」と鳴いた。

興奮しすぎてか、いつもは人型保っているのに、皆そのままの姿だ。


「わ、ちょ、みんな……落ち着いて!」


長としての俺はここにいる。

皆の姿を見ていると、懐かしさに胸がふるえた。

神域の空気は変わらず、俺を「橡様の嫁」として迎え入れてくれていた。


「おかえりなさいませー!」

「無事でよかったですうう!」

「長様、長様……」


あまりの勢いに笑ってしまい、俺は両手を広げて応えた。


「ただいま。……みんな、待ってくれてありがとう」


その言葉に、神使たちは嬉しそうに跳ねたり飛んだり、または感極まって地面にぺたんと伏せたりした。


「長」


落ち着いた声が、背後から届く。振り返ると、橡様が立っていた。

黒衣の衣、静かに揺れる艶やかな黒の髪、そして――変わらず、俺をまっすぐ見つめる金色の瞳。


「おかえり」


その声が、心の底に沁みた。


「……ただいま、橡様」



夜になると、賑やかな気配も静まった。

寝殿には静かさの帷が降りている。


障子越しに虫の音が微かに聞こえる。

灯りは消され、月光が淡く床を照らしていた。


俺と橡様は、隣り合って座していた。互いの肩がほんの少し、触れる距離。


「橡様……」


俺は懐から、小さな布に包まれたものを取り出した。


橡様が視線を落とす。

そこにあったのは、一枚の鱗――かつて、俺の身体の中に残された、橡様の逆鱗だった。


「……あの子が、返してくれたんです」

「……うん」


橡様が静かに頷いた。


「“これ、おかあさんが持っててって”って。あの子にあの人がずっと持たせててくれたみたいで……」


手のひらに乗せた鱗は、月光を受けて仄かに光っていた。

俺はそっと視線を戻し、橡様に向き直る。


「……これは、本来、橡様のものです。……だから、返します」


俺が差し出した手に、橡様はそっと自分の手を重ねた。

けれど、鱗を受け取ろうとはしなかった。


「……君の手にあったから、僕はここまで来られた」


囁くようなその声が、胸を打った。


「僕はね……浅葱を殺してしまおうと思ったんだ。許せなかった……あの子を盗られたこともだけど、それ以上に君を傷つけ、僕から引き離したことが」


俺は橡様を見上げる。

橡様は、小さく苦笑を落とした。


「僕は君さえ取り戻せればいいと思っていたよ。子供はまた、そのうちできる……と。酷い話だろう……?僕は神なのに神らしくないのかもしれないね……」


橡様の指が、鱗をゆっくりと撫でる。


「でも、橡様はそうしなかった。だから、酷くなんかないです。立派な神様です」

「……立派なんかじゃないよ。君こそ……浅葱を、よく……」


橡様の声がそこで、止まった。

今度は俺が苦笑を漏らす番だった。


俺は聖人君子なんかじゃない。

浅葱のことは全てを許せるわけじゃなかった、今だって思うところは、ある。

目をとられ、逆鱗をとられ、子をとられ……。

でも、俺のような神でもない、人間の俺が──こうして生きて、またこの神様が見つけてくれて……子にも会えた。


「痛かったし、怖かった。それに悔しかった……でも、俺は生きていた。じゃあ、いいかなって思ったんです」


だって、奇跡だと、思う。

あの時、浅葱が俺を殺さなかった理由はわからない。

きっとそうした方がさぞ簡単だっただろうに。

でも、そういった偶然と奇跡が重なって、俺は今ここにいる。


「……憎んでも、仕方ないと思って。でも、いつかは文句を言って殴ってやるぐらいはしますよ」


そう言うと、橡様が目を見開いてから笑顔になった。


「君は……君こそ、神に相応しいかもしれないね……僕の選んだ君こそが」


もう一度、橡様が逆鱗をなぞる。

そのまま、ひとひらの花弁を裂くように――逆鱗が、ふたつに割れた。


淡く、静かに、音もなく。


片方を橡様自身が懐に収め、もう片方を、俺の胸元にそっと押し当てる。


「これは、僕のものじゃない。もう、“ふたりのもの”だよ」


鱗が、すうっと肌に溶けていった。痛みはなく、ただ、温かかった。

まるで、心の奥まで満たされていくように。

そして、橡様の片手がそっと俺の目を撫でた。


「どうかな……見えるかい?」


ゆっくりと左目を開ける。

そこに映ったのは金色の瞳。

あの晩と同じ色が宿っていた――けれど、もう、独占の光ではない。

愛しさと、敬意と、ひたむきな想い。


橡様が、俺の頬に手を添えた。


「長。……触れても、いい?」


俺は、迷わなかった。


「……はい」


唇が触れ合った瞬間、時間がほどけた。


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