神域の空気は、どこか懐かしく澄んでいた。
屋敷の門をくぐった途端、空が近くなったような錯覚に包まれる。
薄い雲が流れ、風が結界を撫でる音が耳に心地よい。
「長様ァァァァアッ!!」
耳をつんざくような叫びとともに、神使たちが群がってきた。
羽の音、足音、鈴の音――あらゆる生き物の祝祭のようだった。
白羽の鳥が肩にとまり、狐が尾を振りながら足元にすり寄る。
小さな龍が頭の上に乗り、「きゅぅ」と鳴いた。
興奮しすぎてか、いつもは人型保っているのに、皆そのままの姿だ。
「わ、ちょ、みんな……落ち着いて!」
長としての俺はここにいる。
皆の姿を見ていると、懐かしさに胸がふるえた。
神域の空気は変わらず、俺を「橡様の嫁」として迎え入れてくれていた。
「おかえりなさいませー!」
「無事でよかったですうう!」
「長様、長様……」
あまりの勢いに笑ってしまい、俺は両手を広げて応えた。
「ただいま。……みんな、待ってくれてありがとう」
その言葉に、神使たちは嬉しそうに跳ねたり飛んだり、または感極まって地面にぺたんと伏せたりした。
「長」
落ち着いた声が、背後から届く。振り返ると、橡様が立っていた。
黒衣の衣、静かに揺れる艶やかな黒の髪、そして――変わらず、俺をまっすぐ見つめる金色の瞳。
「おかえり」
その声が、心の底に沁みた。
「……ただいま、橡様」
*
夜になると、賑やかな気配も静まった。
寝殿には静かさの帷が降りている。
障子越しに虫の音が微かに聞こえる。
灯りは消され、月光が淡く床を照らしていた。
俺と橡様は、隣り合って座していた。互いの肩がほんの少し、触れる距離。
「橡様……」
俺は懐から、小さな布に包まれたものを取り出した。
橡様が視線を落とす。
そこにあったのは、一枚の鱗――かつて、俺の身体の中に残された、橡様の逆鱗だった。
「……あの子が、返してくれたんです」
「……うん」
橡様が静かに頷いた。
「“これ、おかあさんが持っててって”って。あの子にあの人がずっと持たせててくれたみたいで……」
手のひらに乗せた鱗は、月光を受けて仄かに光っていた。
俺はそっと視線を戻し、橡様に向き直る。
「……これは、本来、橡様のものです。……だから、返します」
俺が差し出した手に、橡様はそっと自分の手を重ねた。
けれど、鱗を受け取ろうとはしなかった。
「……君の手にあったから、僕はここまで来られた」
囁くようなその声が、胸を打った。
「僕はね……浅葱を殺してしまおうと思ったんだ。許せなかった……あの子を盗られたこともだけど、それ以上に君を傷つけ、僕から引き離したことが」
俺は橡様を見上げる。
橡様は、小さく苦笑を落とした。
「僕は君さえ取り戻せればいいと思っていたよ。子供はまた、そのうちできる……と。酷い話だろう……?僕は神なのに神らしくないのかもしれないね……」
橡様の指が、鱗をゆっくりと撫でる。
「でも、橡様はそうしなかった。だから、酷くなんかないです。立派な神様です」
「……立派なんかじゃないよ。君こそ……浅葱を、よく……」
橡様の声がそこで、止まった。
今度は俺が苦笑を漏らす番だった。
俺は聖人君子なんかじゃない。
浅葱のことは全てを許せるわけじゃなかった、今だって思うところは、ある。
目をとられ、逆鱗をとられ、子をとられ……。
でも、俺のような神でもない、人間の俺が──こうして生きて、またこの神様が見つけてくれて……子にも会えた。
「痛かったし、怖かった。それに悔しかった……でも、俺は生きていた。じゃあ、いいかなって思ったんです」
だって、奇跡だと、思う。
あの時、浅葱が俺を殺さなかった理由はわからない。
きっとそうした方がさぞ簡単だっただろうに。
でも、そういった偶然と奇跡が重なって、俺は今ここにいる。
「……憎んでも、仕方ないと思って。でも、いつかは文句を言って殴ってやるぐらいはしますよ」
そう言うと、橡様が目を見開いてから笑顔になった。
「君は……君こそ、神に相応しいかもしれないね……僕の選んだ君こそが」
もう一度、橡様が逆鱗をなぞる。
そのまま、ひとひらの花弁を裂くように――逆鱗が、ふたつに割れた。
淡く、静かに、音もなく。
片方を橡様自身が懐に収め、もう片方を、俺の胸元にそっと押し当てる。
「これは、僕のものじゃない。もう、“ふたりのもの”だよ」
鱗が、すうっと肌に溶けていった。痛みはなく、ただ、温かかった。
まるで、心の奥まで満たされていくように。
そして、橡様の片手がそっと俺の目を撫でた。
「どうかな……見えるかい?」
ゆっくりと左目を開ける。
そこに映ったのは金色の瞳。
あの晩と同じ色が宿っていた――けれど、もう、独占の光ではない。
愛しさと、敬意と、ひたむきな想い。
橡様が、俺の頬に手を添えた。
「長。……触れても、いい?」
俺は、迷わなかった。
「……はい」
唇が触れ合った瞬間、時間がほどけた。