夜の街は、昼間とはまるで違う表情を見せていた。
提灯が揺れ、妖艶な灯火が通りを染める。
胡琴の音が流れ、酔客の笑い声が絶えない。妓楼から漂う濃厚な香が、街の空気に甘く溶け込んでいた。
煌星は、その複雑に絡み合う香りの中から、微かな"番紅花"の気配を探していた。
(……やはり簡単には見つからないか)
妓楼の香りは強い。
薔薇、沈香、龍涎香、白檀――高級な香料が幾重にも折り重なり、男たちを惑わす甘美な空気を作り出している。
その中で"あの酒"に使われた香りを見つけ出すのは、まさに針の穴を通すような作業だった。
「……景翊」
隣を歩く"若様"へ、煌星は低く囁いた。
「妓楼の中を探るなら、少し派手に振る舞った方がいいかもな」
景翊は、意味深に唇の端を持ち上げる。
「なるほど……確かに」
次の瞬間、煌星の腰に強く腕が回された。
「っ!?!?」
耳元に、低い囁きが落ちる。
「寵愛される小姓役なら、それらしくしろ」
ぞくりと背筋が震えた。
(……なんで僕がそんな役を⁈)
景翊の余裕たっぷりな態度が、どうにも腹立たしい。
が、今は反論している暇はない。
二人はそのまま、華豊楼の中へと足を踏み入れた。
妓楼の内部は、外観以上に豪奢だった。
壁には繊細な刺繍が施された布が掛けられ、上質な絨毯が床を覆う。
部屋の隅々まで艶やかな香りが満ち、酔わせるような空気を作り出していた。
(……やはり、香りが強すぎる)
煌星は、意識を研ぎ澄ませながら、わずかに漂う"番紅花"の香りを探す。
妓楼では、客を引き込むために様々な香を焚く。沈香、白檀、龍涎香、花々の香気……それらが渦巻く中で、"あの香り"だけを拾い出すのは至難の業だった。
だが、確かにある。
ほんの僅かに――だが、確かに。
煌星は、奥の方へと目を向ける。
「……あの奥には何が……?」
「ああ、"上客"専用の部屋だ」
景翊が低く答える。
「高官や裕福な商人だけが通される場所。普通の客は入れない」
(なるほど……そこに、何かがあるかもしれない。あれ?なんかよく知ってないか、こいつ……まあいいけどさ)
煌星が思案していると、鮮やかな衣を纏った妓女が優雅な足取りで近づいてきた。
「まあ、お客様……今宵はどのような楽しみを?」
艶やかに微笑みながら、景翊の腕へと指を這わせる。
(……なんか、腹立つ)
自分でもよく分からない感情に戸惑いながら、煌星は無意識に眉を寄せた。
だが、景翊はまるで意に介さず、涼しい顔で笑う。
「今夜は、静かに酒を楽しみたいだけだ」
「まあ、それは素敵なこと……」
妓女は色っぽく笑いながら、ちらりと煌星へ視線を向ける。
「……しかし、こちらのお方は?」
「私の大切な者だ」
煌星の腰にあった手が、するりとわき腹を撫で上げた。。
「あっ……!!!」
(ちょ⁈……おい‼)
「今夜は"二人きり"で過ごしたい」
景翊が金の入った小袋を妓女に渡すと、彼女は目を瞬かせた。
だが、すぐに微笑み、しなやかに頷く。
「まあ……情熱的なお方」
("情熱的"とか言わないで……!!!)
煌星は、表情を崩さないように必死に耐えた。
妓女は、優雅に手を振り、二人を奥の特別室へと案内する。
二人が通された部屋は、まさに"上客専用"というべきものだった。
壁際には華やかな刺繍の屏風が並び、上質な絨毯が床を覆う。
卓の上には、すでに上等な酒と肴が用意されていた。
妓女が「ごゆっくり」と告げ、朱塗りの扉を閉じる。
煌星は、その瞬間、すぐに鼻をひくつかせた。
(……やっぱり、この部屋……香る)
この香り――間違いなく"あの酒"と同じものが使われている。
煌星の視線が、卓上の酒瓶へと向かう。
「景翊」
「わかっている」
景翊もまた、慎重に酒瓶を手に取った。
(……これ……!)
煌星は、注意深く瓶に鼻を近づける。
「後宮の酒と同じものかもしれない」
薔薇と番紅花の香り――甘く、しかしどこか違和感を覚える芳香。
煌星の脳裏に、昨夜の宴で飲んだ酒の記憶が鮮明に蘇る。
「……間違いないな」
景翊が低く呟く。
煌星は、じっと酒瓶を見つめながら、静かに息を吸った。
(この酒……誰が持ち込んだのか……)
妓楼と後宮の酒が繋がっている。
そこに隠された陰謀を暴くため、さらに深く踏み込むしかない。