妓楼の奥へと足を踏み入れると、外の賑わいとは一転して、静寂が支配していた。
赤い絨毯が敷かれた長い廊下には、壁際にぼんやりと灯る燭台が並ぶ。
奥へ進むほどに、空気は濃密になり、どこか閉ざされた空間に迷い込んだような錯覚を覚えた。
煌星は、妓楼の経営を取り仕切る女主人・香蘭を前に、慎重に言葉を選ぶ。
「"特別な客"にしか出さない酒があると聞いたのですが」
微笑みながら探りを入れると、香蘭の目がわずかに細まった。
「おや、そんな話をどこで?」
「……まあ、ちょっとした噂話です」
煌星がそんな風に返すと、香蘭はしばらく視線を泳がせた後、ゆっくりと盃を持ち上げた。
「確かに、特定の客にしか出さない酒はございますが……それが何か?」
隣に座る景翊が、盃を弄びながら何気なく言う。
「その酒……"南方の薔薇"と"番紅花"が使われているらしいな?」
瞬間、香蘭の指が僅かに硬直した。
(……図星か)
煌星は、微かな表情の揺らぎを見逃さなかった。
「その酒、誰が持ち込んだのですか?」
「……存じませんわ。仕入れは番頭が管理しておりますし、私どもは"客に出す酒"の中身までは気にしませんから」
「では、その番頭に話を聞けますか?」
煌星がさらに踏み込むと、香蘭は薄く微笑む。
「申し訳ございませんが、あいにく今は席を外しておりますの」
煌星は、ゆっくりと首を傾げた。
(しらばっくれる気か……)
妓楼の酒の仕入れを、主人が把握していないなどありえない。
ましてや、"後宮の毒"と同じ成分が使われていると知れば、無関係では済まされないはずだ。
そんな煌星の思考を察したのか、景翊がわずかに顎を動かす。
(……奥を探れ、ということか)
煌星は、さりげなく立ち上がると、涼しげに微笑んだ。
「若様。なんだか僕疲れちゃいました……少し休憩を頂いても?」
「ああ。先に戻っておいて構わない」
景翊の言葉に、香蘭は微笑を保ったまま小さく頷く。
(……さて、証拠はどこにある?)
煌星は妓楼の奥へと向かった。
妓楼の裏手に回ると、小さな倉庫のような建物が目に入る。
煌星は、静かに近づき、慎重に扉を押した。
(……鍵はかかっていない)
ほんのわずかに開いた隙間から、熟成された酒の香りが漂う。
中に足を踏み入れると、並べられた無数の酒壺が目に入った。
煌星は、慎重に空気を嗅ぐ。
(……ある。微かだけど、あの香りが)
慎重に棚の奥へと進み、一番小さな酒壺を手に取った。
封はされているが、鼻を近づけると確かに"南方の薔薇"の香りが混ざっている。
「やっぱり……これが、後宮に流れていた酒……」
煌星は、それを袂に隠し、ふと目に留まった書物を手に取る。
(これは……帳簿?)
開いたページには、"特別な酒"の取引記録が記されていた。
煌星は、それを胸元へと忍ばせ、慎重に倉庫を後にした。
部屋に戻ると、景翊が牀に横たわり、優雅に酒を傾けていた。
(……ほんと、遊び人の若様みたいなんだけど)
煌星は、ため息をつきながら、景翊の前に酒壺を差し出す。
「この成分、後宮の事件と同じものだよ」
景翊は、瓶を手に取り、僅かに目を細めた。
「となると……ここが供給元の一つというわけか」
「でも、妓楼が独自に調合したとは思えない。配合が専門的すぎる」
煌星は、慎重に酒壺を封じ直しながら言う。
「つまり、これを作ったのは別の"専門家"……後宮の誰か、あるいはそれに近い者だ」
景翊は腕を組み、ふと煌星の手元にある帳簿へ目をやる。
「それは?」
「倉庫で見つけた。"特別な酒"の取引記録みたい」
煌星は、帳簿を開き、慎重に文字を追う。
そして――
「……あった」
煌星の指先が、ある名前で止まる。
「……この名前……」
煌星は、景翊と視線を交わした。
帳簿には、後宮の関係者の名がはっきりと記されている。
「"あの人"が、やっぱり……」
景翊は、冷たく微笑む。
「さて……どうやって尻尾を掴むか、考えるか」
煌星は帳簿を閉じ、深く息を吐いた。
(これで、確実に繋がった……後宮の毒の真相に)