翌朝。
薄い朝の光が、妓楼の帳をうっすらと染めていた。
煌星はいつの間にか眠っていたらしく、ふと目を開けると、すぐ横で景翊が静かに座っていた。
膝の上には昨夜の帳簿が広げられ、手には盃ではなく茶碗。
「……起きたか」
静かな声が、寝起きの脳に柔らかく届いた。
「……朝……?」
「まだ早い。だが、そろそろ宮殿に戻らねばな」
景翊は茶を口に運びながら、帳簿に目を落としたまま答える。
煌星は起き上がりながら、しばらくその横顔を見つめた。
今までのような飄々とした姿ではない。
仮面のような笑みを捨てた、本来の彼。
――影武者でありながら、国を守ろうとしている男の横顔だった。
「……なんか、珍しく真面目だね」
思わずからかうように呟いた。
景翊はくすりと笑う。
「俺だって、いつもふざけているわけではない」
「へぇ、知らなかった」
「……知ってただろう、お前のことも?」
言われた瞬間、心臓が跳ねた。
煌星は誤魔化すように視線を逸らし、帳簿をひったくるように奪い取った。
「いいから、帰る準備だろ!!」
「はいはい、貴妃様」
からかうように笑う声を背に、煌星はぷいと顔を背ける。
(あーもう、ほんと……朝からこれだよ)
とはいえ、宴の計画は進めなければならない。
妓楼を後にした頃には、空の色が薄明に染まりはじめていた。
早朝の街道を進む馬車の中、煌星は窓の外に視線を投げたまま、無言だった。
あれだけの証拠を手に入れ、これでようやく一歩前進できる――そう分かっていても、胸の奥はざわついていた。
隣では、景翊が腕を組み、まるで何事もなかったかのように目を閉じていた。
けれど、彼の眉間にはわずかに緊張の名残があり、完全に気を抜いているわけではないのだと分かる。
「睨むなよ」
ふいに景翊が言った。
「別に……睨んでないよ」
煌星は反射的に返したが、自分がどんな表情をしていたのかまでは分からない。
「ふふ。ならいいが」
からかうような笑みを浮かべた景翊は、また静かに目を閉じた。
けれどその口元は、どこか安心したようにも見えた。
やがて、馬車が天璇宮の側門に滑り込む。
出迎えに現れたのは、柳蘭と柳香の侍女姉妹だった。
「貴妃様、お戻りをお待ちしておりました」
「貴妃様っ……ほんとに無事でよかったですぅ……!」
柳香が涙目で飛びつこうとしたのを、柳蘭が冷静に止める。
「柳香、ここは宮中ですよ」
「ひゃいっ……!」
そのやり取りを見た景翊が、小さく笑みを漏らす。
「ふ。いい侍女を持ったな」
「陛下。からかいすぎは禁物です」
柳蘭がすかさず釘を刺した。
煌星は、ため息混じりに頷きつつ、気を引き締める。
妓楼で得た情報と証拠、それをどう使うか。
もうすぐ、すべてが動き出す。
「まずは湯浴みを。その後、宴の段取りに移ります」
柳蘭の指示に従い、煌星が宮殿の奥へと歩き出すと、すぐ背後から景翊の足音がついてくる。
「……ちょっとさぁ……僕から離れる気はないの?」
振り返ることなく問うと、すぐに低い声が返った。
「気づくのが遅い」
「……っ」
言葉に詰まる煌星を横目に、景翊は軽く笑いながら歩を緩める。
「宴の準備、しっかり頼むぞ。貴妃様」
「……うっさい……!」
そう呟いた煌星の頬が、ほんのり赤く染まったのを、景翊は見逃していなかった。
その後、魏嬪と合流し、今回の「宴の主催」となる名目――"鳳華の気を慰めるための月見宴"を立てた。
後宮の動揺を鎮めるためにも、煌星が無事であることを示す意味がある。
そして、あの帳簿に名を連ねていた高官――"犯人の可能性が高い人物"も、宮廷内の重鎮として必ず招かれる立場だ。
「当然、奴は出てくるだろう。むしろ、来ざるを得ない」
景翊は確信を込めて言った。
煌星は、心を決めて小さく頷いた。
「宴は三日後。舞台は月花殿……そこに、餌と罠を仕掛けておく。あとは、奴がどう動くかだね」
景翊の指が、そっと煌星の手に触れる。
「……いいか。お前は俺のそばを絶対に離れるな」
「……はいはい」
軽く返しながらも、その言葉に微かな安心を感じた。
からかわれているようで、確かな想いがこもっている。
その真意に、煌星はまだ戸惑いながらも、次第に惹かれていく自分を自覚しつつあった。
(勘弁してほしいな……相手が景翊とかさ……)
自分自身に、煌星は溜息を吐いた。